『客観性』 社会科学部1年 竹田昂史

 最近、「客観的」という言葉を疑うようになった。同時に、客観的な事はどう探せばいいのだろう、という疑問が生じた。普段は何気なく発している言葉を、この場をお借りして考えたい。

 客観的であるとは、普遍的妥当性を有していることである。私達は、他人と話す際には自然と客観的な事を話している。なぜなら、他人と「わたし」は別の存在であり、何か普遍的妥当性をもつものが前提としてないと会話が成り立たないからだ。
 しかし、会話における「客観的」なことは、本当に客観的であろうか。それを定義するのは普遍的妥当性を定める者であり、もちろんそんな者は存在しないため、私達は各々が抱く「客観的」を語っているのに過ぎない。


 そこで「客観的」視点を考えたい。


 客観的視点というと、何か外から眺めるようなイメージがあるのではないだろうか。私たちは二元論的思考が染み付いてしまっているらしく、「わたし」と「対象」を分離しがちである。では、分離された「対象」を眺めるだけで本当の理解は得られるのだろうか?

 ここで、「対象」を建物としてみよう。
すると、「わたし」は外から建物を眺めていることとなる。
この「わたし」が建物を完全に理解することができるだろうか?
建物を眺めただけでは外装は分かっても、内部の構造までは分からないだろう。
一旦建物の中に入って、そこでようやく内部の構造が分かるというものだ。
つまり、客観的であることは単純に「わたし」と「対象」の二元的世界ではない。普遍的妥当性を探すためには分離してはならないのだ。

 他人の意見を「客観的」に判断するのではなく、内部に入る、つまり、他人の立場に立つことで本当の客観的視座は得られる。

 他の事に関しても同じことが言えるかもしれない。

 社会問題も、字面だけしかながめていては分からないし、解決に繋がらない。
 解決とは合意であり、人とのつながりだ。
 解決のためには内部に入り込まねばならないのだ。