「雄弁会でどう変わったか」

法学部1年 津田遼

 「国家、世界のことを本気で議論して自分を高めたい」。そんな気持ちを抱いて今年の春、雄弁会に入会して9ヶ月が経とうとしている。過去9ヶ月間、私は大いに変わった。
 大学入学当時、私は将来、政治家、もしくは外務省の官僚となって、『政治』を通して、日本のために活躍したいと、漠然ではあるが強く思っていた。会社員、芸術家、スポーツ選手、弁護士、自営業、、、世の中には無数の職業が存在するが、その中でも『政治』は最も『尊い』職業であると考えていた。なぜなら、他の職業が自らの利益ないし、自らが属する会社等の利益の実現を最大の目的としているのに対し、『政治』はそういったミクロな枠組みを超え、国民全体の利益を実現させるものであるからだ。よって、当時の私は、口先では「広い視野を持ち、偏見を持たずに柔軟に、将来、自分の進むべき道を考えたい」と周囲に言い、自分にもそう言い聞かせてきたのであるが、心底では、最も『尊い』職業である『政治』以外に、自分の進むべき道は絶対にないと強く考えていた。
 そういった心構えのもと、私の雄弁会での活動は始まった。
 前期の活動(5月から9月)においては、私は、現在国際的な大問題でもあるイラクでのテロリズムに注目し、「どうすればイラクテロリズムを大きく減少させることができるのか?」というテーマのもと、研究を行った。このテーマを設定したのは、それが、当時私が知っていた最も『深刻』な問題であり、その最も『深刻』な問題を解決しようと努力することこそが、最も『尊い』行為であり、それが私がすべきことであると考えたからである。
 しかし、自らの研究成果を発表し、議論している最中に、ふと、大いなる疑問が生まれた。「自分は本当に、今、自らが『最も深刻な問題』として解決すべきだと主張している問題(=イラクにおけるテロリズムの削減)を解決したいと、心の底から思っているのだろうか?」という疑問である。
  当時の私は、上記したように、「『最も深刻』な問題を解決することこそ、『最も尊い』行為である」とし、そして、「『最も尊い』行為をすることこそが、『最も有意義』なことであり、『最も有意義』なことをすることこそが、自分にとって『最も幸せ』な人生である」と考えていた。この考えに、今も変わりない。
では、なぜそのような疑問が生まれたのだろうか?
それは、私が、そういった自らの幸福論を語るときに使う『深刻』という言葉の定義について、深く考えていなかったからである。
 私は、客観的に見て、<問題に苦しむ人々の人数×問題の重大性>の積が最も大きい問題を、『最も深刻な問題』であると定義してきた(最も、それらを客観的数値で表すことなどはできないので、そのプロセス自体が主観的ではあるのだが)。しかし、そこで定義する『最も深刻な問題』を解決することが本当に自分の『幸福』に直結するのだろうか。すなわち、自分が最もやりがいを感じ、最も有意義な時間を過ごす手段なのだろうか。
 そうではなかった。たとえ、客観的に見て『最も深刻な問題』であったとしても、それは必ずしも自分にとって『最も深刻な問題』ではなかったのだ。
 たとえば、イラクで1万人のイラク人が殺害されるのと、自分の最愛の一人の人が殺されるのと、どちらが『深刻な問題』であるかという場合、客観的に見れば明らかに前者であるだろうが、私にとっては最愛の一人の人の死のほうが、よほど『深刻』である。
 確かに、イラクにおけるテロリズムが(客観的観点において)『深刻な問題』であるには変わりない。しかしながら、自分が生涯をかけて取り組みたいことは主観的観点から見た、自分自身にとっての『最も深刻な問題』であったのだ。
もちろん、両者が重なり合うことも大いにありえるだろう。しかし、研究の過程においては細心の注意を払い、それが常に自分にとって本当に『最も深刻な問題』であるのだろうか、ということを自問する必要がある。なぜなら、研究内容が複雑化すればするほど、自分にとっての『深刻な問題』の解決のための研究ではなく、研究のための研究に走りがちである、と私は感じているからだ。
自分自身と素直に向き合い、自分の本心を追及する。この重要性を身を以て実感することができたことが、私が過去9ヶ月の雄弁会活動で得た最大のものであり、私の最も大きな変化である。そう考えている。