「試練の場」

教育学部1年 岩本慧

全国的に寒さもいよいよ厳しくなってくる2月になった。

「2月」

この単語に対してこのコラムを読む皆さんは何を連想するであろうか。節分・・・立春・・・バレンタイン・・・28日間しかない・・・etc。答えは人の数だけあることだろう。

では私の場合はどうか。私は2月にいいイメージは抱けない。私は、去年まで大学生ではなかった。受験生だった。当然のことながらこの時期は最後の追い込みをかけていた。少しずつ迫ってくる試験日。外の積もっていく雪のようにプレッシャーも大きくなる。去年の二月の一日一日が、辛く苦しい日ばかりだったと記憶している。受かるか落ちるかわからない状況下で辛い日々が続いたが、合格したときばかりは飛び跳ねるほど嬉しかった。受験は私に、いろんな経験をさせてくれたし、見せてもくれた。
故に、私が2月という月に対して真っ先に連想するものは受験である。先月にはセンター試験も終わり、これからは私大の入試もぼちぼちと始まり、2月の下旬にもなると国公立大の前期試験が始まる。受験戦争の文字通り、全国の受験生は互いに、そして自己との一大決戦に臨む。


ところで、日本において「受験戦争」と形容されるような状況が生じ始めたのはいつ頃からだったのだろうか。それは、いわゆる高度経済成長期と呼ばれる時期からである。当時は日本の産業の高度化が急速に推し進められた時期であるが故に、社会も高等教育を受けた人間を欲する傾向にあり、個人の意識も自らのエリートコースへの志向が強い時代でもあった。戦後の日本は一貫して学歴志向が高い学歴社会であるとも呼ばれるのもうなずける。現在は当時のような猛烈な競争はない。少子高齢化の進行から大学全入時代といわれるように、人気のある大学・学部以外は受験戦争と呼ばれる状況は限られてきており、選り好みしなければ大学にも入学できるようになった。

 昨今、格差社会という言葉が巷を賑わせた。その文脈の中で学歴格差もクローズアップされている。それは現代社会がグローバル化の進展による国際競争の激化やポスト工業化によって経済社会の変化が進んだことに大きな要因がある。どのような学校を、どんな成績で、ということで細かな格差が生じ、現在の経済的希少性の低い人々の生活の圧迫・貧困が生み出されているという指摘もある。だが一概に、教育格差が貧困にダイレクトにリンクするとは言えない。子供の教育に対して各世帯の様々な考えがあるし、むしろマクドナルド・プロレタリアートなどと呼ばれる熟練を要しないサービス労働に従事する労働力を大量に欲する産業からの強い要請があることが上述した現代の社会潮流からもいえるように、現在の貧困は経済的要因のほうが大きいといえる。

しかし、そんな時代だからこそどのような教育を受けたかが意味を持つ。高い賃金を得て、自らの人生において生じる病気や貧困などの「リスク」に対する防衛策を講じるために、高度な教育を受けるなどの自らの「未来への積極的な投資」として、ある種の社会保障として教育を考え直さなければならない。格差によって生じた貧困などの結果を最低限是正するセーフティネット構築が必要なのは言うまでもないが、そのようなある種事後的なセーフティネットに留まることなく、個人が自らの人生のためにエンパワーメントしていくためのセーフティネットも構築されるべきなのだ。また、わが国の産業においても、国際競争に打ち勝つために高度な専門性を擁した人的資源を必要としているのはいうまでもないことである。
現在は技術進歩の早い時代でもあるため、職業支援策としての中高年のパソコン教室のような学校教育を終えた人のための施策も求められるだけでなく、何よりも大学のあり方も考え直さなければならないのは必然の流れであろう。つまり、現行の入試制度には、現実妥当性があるのか、という問いである。より多くの専門性をもった人的資源を必要とするなら、入学試験から入学後の成績へと競争の場を移してみるのも一つの方法ではないだろうか。

教育を巡る言説はあまた巷に溢れ、盛んに議論が行われている。個人にとって、企業にとって、わが国にとって、それぞれがWin-Winの関係になる教育制度が求められるのである。