単純な規制の力強い効果 ―論文 “The dog and the Frisbee”の紹介と概説― 赤澤 航真(政治経済学部1年)

 「犬とフリスビー」なる論文をご存じだろうか。安っぽい名前だと思われたかもしれないが、これはイングランド銀行の専門家が発表し耳目を集めた、れっきとした金融規制に関する報告である。論旨はいたって明快で、不確実な事象に対しては複雑な規則より単純な規則に従うほうが効果的であるということ、そして年々複雑化する金融規制においても同様のことが成り立つことを、「リーマンショック」前後の金融機関のデータを使って実証的に示している。新しい論文ではないが、金融規制の議論に一石を投じたものであるので、概要をここで紹介しておきたい。以下特に断りがない限りHaldane and Madouros(2012)からの引用である。目次は末尾に載せている。

 

 [1節] 犬はフリスビーを追う際、いちいちフリスビーの動きを予測しているわけでもなければ、フリスビーを動かす複雑で数多くある要因を細かく分析することもしない。他の意思決定の規則と同様、「フリスビーを見る角度をだいたい一定に保てるようなスピードで走る」という単純な行動規則に従っているのである。

 [2節] 単純な行動規則は、複雑性と不確実性が高い環境下で真価を発揮する。参考にできる経験やサンプルが少ない場合は特に、単純なものの効果が高い。「限定合理性」の概念で有名なノーベル経済学賞受賞者のハーバート・サイモンは、このような便宜的な経験則を「ヒューリスティクス」と呼んでいる。生物は複雑な環境に適応する際、当然ながら「合理的期待」などに基づくのではなく、こうした単純な法則を見出して行動し、適応することが知られている。(複雑な環境下で「リスク」と「合理性期待」を元に意思決定する場合、最適な反応規則は完全に状態に左右される規則だという(p.3)。ここで言うリスクとは発生確率が事前にわかっているような事象であり、発生確率の不明な「不確実性」とは異なる。そのような場合、経済主体にとっては自らを取り巻く事象や自分の効用についての情報を収集し、未確定なことに関してはその確率を吟味して意思決定を下すというような、複雑な意思決定行動をとることが自ずと合理的になる。)また、サンプルサイズが小さいほど、単純な規則のほうが(予測力などの)性能が良い。

 ホールデンとマドウロス曰く、疾患の診断、スポーツ予測、犯罪捜査、株式投資等にもこのことはあてはまるらしい。例えば株式投資については、データ量が3000か月(約250年)をであれば、「ポートフォリオ最適化」などの投資法則よりも「1/Nルール」などのほうが結果が良いという。(※ポートフォリオ最適化とは、簡単に言えば収益率が同じと見なされる場合によりリスクの少ないほうを選ぶというような戦略。1/NルールとはNつの選択肢全てに均等に1/Nの資金を配分するという単純極まりない戦略。なお平均分散最適化という、直感的と言われる投資方法が本当に複雑なものの例として適切なのかは筆者にはよくわからない。)この手のことはスポーツの優勝者予測においても同様なようである。

 

 

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→参考:ある投資の本によれば、ROIC(投下資本利益率)などを用いる「洗練された」投資法は、自由度がありノイズがどうしても混ざる他の投資法より投資結果が良いことをデータで裏付けている。どこまで信頼できるのか不明だが参考までに。

 

 

 [3節] 翻って金融規制はどうか。残念ながら、規制は肥大化する一方である。国際的な大銀行に対する規制の指針にバーゼル銀行監督委員会が作る「バーゼル規制」があるが、最近作られた規制案「バーゼルⅢ」は616ページになってしまっているという。バベルの塔ならぬ「バーゼルの塔」という言葉があるのは有名だろう。

 [4節] この銀行規制を複雑にしている要因が二点ある。一点目は細かすぎるリスク加重方式、すなわち資産の種類ごとに細かくモデルベースのリスク加重を行うという規制である。資産ごとのリスクを細かく加味し、リスクに応じた自己資本を求める規制は最適なのか。(いわゆるリーマンショック前後の銀行破綻に対する指標の関連性を調べるため、2006年末に1000億ドルを超える総資産を保有していた巨大国際銀行約100行をサンプルにした)計量分析を行った結果では、最適ではなかった。投資やスポーツの結果予測のように、簡素な「レバレッジ比率規制+単純加重方式」のほうが有効だったようだ(p.13)。(※レバレッジ比率は高いほうが健全。例えば「レバレッジ比率 3%(= 3/100)以上」は「レバレッジ 33 倍(= 100/3)以下」となる(鈴木, 2014))

 

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→左は細かいリスク加重方式の自己資本比率指標、右は単純なレバレッジ比率の指標である。左の指標は生存銀行と破綻銀行の間に有意差がないが、右の指標は差が有意にでている。

 

 

 

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 そして二点目の複雑化の要因は資本の定義である。簿価か市場価格か、どこまでを資本に含めるかなど。これについても、実際には比較的単純な資本指標(コアTier1)のほうがより包括的で複雑な資本指標よりも予測力が高いことが裏付けられた。市場価格の単純な合計のほうが良いとの結果が出たという。

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 [5節] さて、単純な規則は複雑な対象には有効であった。ではより単純な対象、簡素で小規模なアメリカの銀行(ここでは連邦預金保険公社加盟銀行が題材)に対してだとどうだろうか。この場合、残念ながら前節までのリスク加重方式とレバレッジ比率とを用いた指標の優位性が逆転してしまった。なぜだろうか。

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 ここでは二つの仮説が考えられるとしている。一つは、既にレバレッジ比率規制があったので、同様のレバレッジでより収益を高められるようにリスクの高い資産保有をするようになっていた、そのため銀行のリスクがリスク加重方式に反映されやすくなったというものである。もう一つは、対象にした地銀が単純なものだったため、複雑な規則が有用だったというものである。どちらが正しいのか。

 結論から言えば、この場合でも単純なルールが有用であることが示されたから、二つ目はあまり妥当でないことが示された。ちなみにここでは、銀行の健全性を調べるポピュラーな枠組みである「CAMEL」を使ったデータ分析がされている。CAMELとはCapital, Asset quality, management, efficiency, liquidity の頭文字をとったものである。これらの指標全てを包括的に調べた結果と、どれか一つの指標を調べた一面的な銀行健全性と、どちらが健全性評価に有用なのかを調べたら、第一にサンプル数が小さいほど単純なほうがいいこと、そして第二に複雑な指標に単純な指標が勝つかどうかは、選ぶ指標次第だという結論になったという。単純な指標もものによっては十分に包括的な指標に勝り得るということだ。

 

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→100行のサブサンプルで作った予測ルールの場合、(赤い棒グラフで表されている)単純なものの予測誤差の少なさは歴然としている。一番左のCAMEL全てを考慮した予測ルールは、(青い◇の通り、)元とするサブサンプルに対しては極めて当てはまりの良い精緻なモデルになっているが、全体に当てはめてみるとひどいずれが生まれている()。

 

 

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→サブサンプルを1000行にしてみると、指標一つだけの単純なルールと包括的なルールの予測力の優秀さがほぼ逆転した。ちなみに、それでもLiquidity(流動性)の指標だけはなお優秀である。(3つの枠線は下の図のチャートに対応させている。)

 

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→サンプルサイズを変えていくと包括的な予測ルールの予測力が急激に上がり、一面的で単純なルールの優位性が相対的に小さくなることがわかる。なおLiquidity Indicatorだけは例外らしい。

 

 

 [6節、7節は省略させていただく。]

 

 [まとめ] したがって結論としては、この論文では近年金融規制があまりに過度に複雑化していること、そして理論上のことに囚われず、現実には金融規制を単純化したほうが望ましいであろうことを実証分析を使いながら結論付けている。政策の中身には深入りしなかったが、銀行の安全性を効果的に規制するにはレバレッジ比率と、資産を単純加重方式で測った自己資本比率を同様に重視し、その最低ラインだけを単純な方法で規制するのが良いという。そしてそれ以上のリスク管理は民間機関の実務に任せるべきだとする。流動性指標が有力だろうという示唆が含まれているのも興味深い。

 私情ではあるが、この論文にもあるように、不確実な世界における「単純なルールの優位」はフランク・ナイト、フリードリヒ・ハイエクミルトン・フリードマンハーバート・サイモンその他多数の碩学が力説していることであるから、金融規制に対してもそれが当てはまることを示したこの論文はどこかで紹介したいと思ってきた。金融危機が起こる度に規制の強化が行われてきたが、規制をいたずらに増やしても、金融を統制しようと試みても危機予防にはむしろ有害なのである。最後になるが、煩雑な規制自体が不確実性を高め、時には危機さえもたらす可能性があることを改めて読者には伝えたい。

 

 

(参考文献)

鈴木利光(2014)「『レバレッジ比率』とは?」大和総研

https://www.dir.co.jp/report/research/introduction/financial/basel3/20141208_0                 09229.pdf

スピッツナーゲル, マーク(2016)『ブラックスワン回避法:極北のテールヘッジ戦略』(長尾慎太郎、藤原玄訳)パンローリング

Haldane, A., & Madouros, V. (2012). The dog and the Frisbee. Bank of England. In Speech given    at the Federal Reserve Bank of Kansas City’s 36th economic policy symposium, “The      Changing Policy Landscape”, Jackson Hole, Wyoming.

                 https://www.bankofengland.co.uk/-/media/boe/files/paper/2012/the-dog-and-   the-frisbee.pdf?la=en&hash=4DEAA2E6D1698A1A0891153A6B4CE70F3083
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参考:「犬とフリスビー」目次

(1)  Introduction

(2)  When Less is More

 (a) The costs of cognition

 (b) Ignorance can be bliss

 (c) Weighting may be in vain

 (d) Small samples and simple rules

 (e) Complex rules and defensive behavior

(3)  Finance – More is More?

 (a) The Tower of Basel

 (b) The Legislative Blanket

 (c) The Regulatory Response

(4)  Risk-Weighting Capital – Simple or Complex?

(5)  Predicting Bank Failure – Simple or Complex?

(6)  Modelling Financial Risks – Simple or Complex?

(7)  Public Policy – More or Less?

 (a) Reconstructing the Tower of Basel

 (b) Leverage versus Capital

 (c) Pillars 1, 2 and 3

 (d) Taxing complexity 

 (e) Structural change

(8)  Conclusion