平成最後の4月下旬に私が考えていたこと   志田 陽一朗(政治経済学部2年)

苦痛すぎて記憶が曖昧になるほどの暗い浪人のトンネルを抜け、早稲田で遊び惚けて尻を蹴飛ばされるように2年生になってやっと、私は「アカデミズム」への第一歩を踏み出したようだ。

などとかっこつけているが、要するに「自分が大学で勉強していることの面白さやその意味が2年生になってやっとわかってきた」という、何ともお粗末な事実に私は気づいたのである。

これは一大事だ。「やっと気づけたのか!すごい!えらい!!」ということではなく、むしろ「このタイミングで気づいてしまった…」という意味での一大事だ。学問が本分の大学生を1年もやっておいて、今さら「学問する意味がわかりました」などとTwitterにでも投稿してみよ。1時間後には激怒のリプライで通知が止まらなくなっていることだろう(こんなコラム誰も読んでねぇよ、という自覚があるからこそこうして大っぴらに書いているわけだが)。私の名前が「石原慎太郎」などでなくて本当に良かった。

まあ、正直なところ、入学してからここまでの大学の授業に、意味面白みを全く感じられなかったといえば嘘になる。毎週その日に教室に向かうのが楽しみな授業はいくつもあったし、厚さが2~3cmある全編英語の教科書の丸ごと一章分を、カフェイン過多で鼻血を出しながら和訳・要約したのも、大学受験を経て英語の面白さやその重要性を確認したからである。

ただ、これらは今となっては怪しい。そもそも中学生の時に英語にある程度真面目に取り組み始めたのも、「ナタリー・ポートマンと楽しくおしゃべりしたい」などという不純なものがその動機の大半を占めていたし、大学に入ってからも「教授の話が面白いから」「授業中に映画を観せてくれるから」といった、授業で扱う学問そのものとは離れたところにインセンティブを見出していたことは事実だ。

今思えば、大学に入って一年余り、私は「University」の定義や「アカデミック」と形容される大学での学問から巧妙に目をそらしつつ、何となく授業に出席し、何となく課題をこなし、何となく単位を取ってきた。批判を恐れずに言えば、日本のほとんどの大学生は私と同じような境遇にいるだろうし、これからもその境遇に身を置き続けるだろう。別に私が偉いと言いたいわけではない。こうした多数派の学生生活のほうが幸福度は幾ばくか高いと思われるし、何より大学側が、我々学生にこうした生活をさせるような運営を戦後70年以上長々と続けてきたのである。「世界で輝くWASEDA」だの「たくましい知性を鍛える」だのと総長はぶち上げていらっしゃるが、私にはその輝きが、油の過剰摂取によるテカりにしか見えない。

…不毛な大学批判はひとまずやめにして、本題の「なぜ大学での勉強の意味やその面白さに気づけたと思えたのか」に戻ろう。きっかけはただ一つ、2019年の4月に行われた統一地方選挙である。

今年の地方統一選は激動だったようだ。大阪府での維新の会による「クロス選挙」や、沖縄・辺野古での衆議院補欠選挙マック赤坂氏の港区区議当選など、様々な波乱が日本中を席捲した。

確かにこれらの話題は非常に注目しがいのあるものだったし、事実私もこまめに情勢をニュースなどで確認していたが、それよりも私が興味深く感じたのは、ごくごく身近なところに、「選挙」という、ほんの少し前まで他人事だったものがそびえ立っていたことである。

自分の住んでいる選挙区の選挙ポスターを、時間をかけて一枚ずつじっくりと眺める。父の恩人が選挙に出ていると聞けば、公式サイトにアクセスして経歴や政策を調べる。今回の投票率が気になり、昨年度あんなに嫌いだった政治分析の教科書を引っ張り出して「投票行動」の章を読みふける…。

いったいどうしてしまったのかと自分でも思うくらい、私は「選挙」というものに夢中になっていた。一昨年の衆議院選挙など、義務感100%・興味0%の状態で投票に行き、白票を投票箱に押し込んで帰ってきた人間だったのに。「選挙って面白いなぁ」と何となく独り言ち、ひたすら自分で自分に困惑することが幾度かあった。

その時、「ああ、今アカデミック・アレルギーを克服しつつあるな」という考えが浮かんだのである。「そうか、これでいいのか」と。

大学に入って授業を受ける中で確信していったことに、「簡単なことやどうでもいいことを難しい言葉でさも難しいことであるように語ると、学者としてメシが食える」というものがある。申し訳ないが、今でもこの考えは持っている。何も、日本語として読めるかどうか怪しくなるくらい、専門用語や独自の言葉でレジュメを作成する必要はないではないか。ドイツ語やラテン語(!)で板書する必要はないではないか。「君はこんな事も知らないのか?」などと、数十も年下の少年少女に得意げに言い放つ必要はないではないか…。こうして、私はアカデミックなものに畏怖と嫌悪を示すようになったのである。

そして、今回の統一地方選挙が終わり、一つ気づけたことがあった。
彼らは、彼女らは、放っておけないのだ。
身の回りの現象や世の中の動き、人々の行いを、「ま、興味ないや」と片付けることが我慢ならないのだ。
簡単に片づけられそうなことを、あえて難しいものとして扱うことで、それらをより高次元のものに昇華させようとしているのだ。

なんだ、こういうことだったのか、と思えた。「アカデミック畑の人たちとは相容れないな」と思っていたが、彼らの「象牙の塔」の裏口は、何とも開放的なつくりだったのだ、と。

こう思うと同時に、心のどこかに抱いていた、雄弁会への違和感も吹き飛んだ。「別に博士号を持っているわけでもないのに、あいつは○○に詳しい、○○のことならあいつと話せばよくわかる、などと言っていいのか、また言わせていいのか」ということである。

「アカデミズム」は、別に、学者たちだけのものではないのである。大学に入り、その畑にいる人と関わりだした時点で、誰も彼も皆等しく、「簡単なことを難しくする」権利を持つのだ。雄弁会のみんなならなおさらだ。アカデミズムに触れ、その畑の耕作に参加することは、「真の雄弁家」への確かな道筋なのだから。

今私は、自信を持って「雄弁会が生きがいです」と言うことができる。「雄弁会に入っています」と述べるときにこれまで浮かんでいた、「自分はちゃんと雄弁会で活動できているのだろうか」というような懸念はない。

だからこそ、「このタイミングで気づいてしまった…」という感想を抱くのだ。今や私は、演練幹事として会活動に大きな責任を持つ立場である。しかも、この秋から一年間、オーストリアザルツブルクに留学に行く関係上、雄弁会に積極的に参加できるのはあと半年もない。激しい後悔と自省の念で、合わせる顔がございません。

とにかく、「気づいてしまった」私には時間がない。これからの活動に向け腕まくりをしたところで、この駄文にピリオドを打つこととする。

新元号  國谷 涼太(社会科学部2年)

4月1日午前11時30分、大学では様々なサークルが新入生を迎える中、私は首相官邸YouTube生放送を見ていた。新元号発表という歴史的な瞬間を目撃するために。2016年8月8日に「象徴についてのお務めについての天皇陛下のおことば」が表明されて以来、様々な準備が行われ、新しい時代が来るという実感が徐々に湧いてきたが、平成も残り1ヶ月となり、いよいよ新元号が発表されるこの日は、今までで最も新しい時代を感じさせる一日となるかもしれない。朝から多くの情報番組で新元号発表までのカウントダウンが行われる中、そんな思いで家を出た。平成生まれの私にとっては初めての改元で、大学へ向かう電車の中でも頭の中は新元号のことで頭がいっぱいだ。少し時間があったため、二重橋前駅で下車し、一つ隣の大手町まで皇居周辺を歩いた。今回の改元は御崩御という悲しみの中ではなく、天皇陛下から皇太子殿下への御譲位という新しい時代への期待感の中で行われる。だからこそ、新元号について様々に思いを致すことができるのだ。

時間となり、菅義偉官房長官の記者会見が始まった。今回も平成の発表方法を踏襲することとなっていた。ちなみに、平成への改元の際に「平成」と書かれた墨書を掲げ、後に「平成おじさん」と呼ばれた当時の官房長官小渕恵三元総理と、当時の総理大臣・竹下登元総理は我が雄弁会の大先輩である。そんな雄弁会の一員として、今回の改元を迎えられたことも、感慨深いものがある。いよいよ新元号が発表され、菅官房長官が掲げた墨書には「令和」(れいわ)と書かれていた。この歴史的な瞬間に立ち会えたことに鳥肌が立った。官房長官の会見が終了し、安倍晋三総理から談話が発表された。「令和」には、「人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つ」という意味が込められているということだ。

「平成」には「内平かに外成る、地平かに天成る」(国内外、天地ともに平和が達成される)という意味が込められていたが、平成は幸いにもその30年で初めて戦争のない時代ではあったものの、災害の多い時代となってしまった。しかし、災害が発生するたびに天皇皇后両陛下はじめ御皇室が常に被災者に寄り添ってこられ、多くの人に勇気を与えた。こうした姿勢は令和においても続いていくだろう。

今回発表された令和は最初の「大化」から数えて248番目の元号である。今回は初めて日本の古典が出典とされた。今や元号を使用する国は日本だけとなった。それぞれの元号に先人たちの願いが込められていた。雄弁会では「令和」と書かれたビラを発行し、多くの人に受け取っていただいた。今日は日本人の中に根ざした元号という文化を感じる一日になった。この伝統をなんとしても守っていきたい。

5月1日、令和が始まる。明日から世間は令和一色になるかもしれないが、もうしばらくは平成だ。天皇陛下は最後の最後まで全身全霊で象徴としてのお務めを果たしておられる。平成の名残惜しさと令和への期待が交差し、どういう気持ちで新たな時代を迎えることになるのかまだ分からないが、私も残り1ヶ月、平成という時代を生きることができた誇りを胸に、全力で平成を生きよう。

単純な規制の力強い効果 ―論文 “The dog and the Frisbee”の紹介と概説― 赤澤 航真(政治経済学部1年)

 「犬とフリスビー」なる論文をご存じだろうか。安っぽい名前だと思われたかもしれないが、これはイングランド銀行の専門家が発表し耳目を集めた、れっきとした金融規制に関する報告である。論旨はいたって明快で、不確実な事象に対しては複雑な規則より単純な規則に従うほうが効果的であるということ、そして年々複雑化する金融規制においても同様のことが成り立つことを、「リーマンショック」前後の金融機関のデータを使って実証的に示している。新しい論文ではないが、金融規制の議論に一石を投じたものであるので、概要をここで紹介しておきたい。以下特に断りがない限りHaldane and Madouros(2012)からの引用である。目次は末尾に載せている。

 

 [1節] 犬はフリスビーを追う際、いちいちフリスビーの動きを予測しているわけでもなければ、フリスビーを動かす複雑で数多くある要因を細かく分析することもしない。他の意思決定の規則と同様、「フリスビーを見る角度をだいたい一定に保てるようなスピードで走る」という単純な行動規則に従っているのである。

 [2節] 単純な行動規則は、複雑性と不確実性が高い環境下で真価を発揮する。参考にできる経験やサンプルが少ない場合は特に、単純なものの効果が高い。「限定合理性」の概念で有名なノーベル経済学賞受賞者のハーバート・サイモンは、このような便宜的な経験則を「ヒューリスティクス」と呼んでいる。生物は複雑な環境に適応する際、当然ながら「合理的期待」などに基づくのではなく、こうした単純な法則を見出して行動し、適応することが知られている。(複雑な環境下で「リスク」と「合理性期待」を元に意思決定する場合、最適な反応規則は完全に状態に左右される規則だという(p.3)。ここで言うリスクとは発生確率が事前にわかっているような事象であり、発生確率の不明な「不確実性」とは異なる。そのような場合、経済主体にとっては自らを取り巻く事象や自分の効用についての情報を収集し、未確定なことに関してはその確率を吟味して意思決定を下すというような、複雑な意思決定行動をとることが自ずと合理的になる。)また、サンプルサイズが小さいほど、単純な規則のほうが(予測力などの)性能が良い。

 ホールデンとマドウロス曰く、疾患の診断、スポーツ予測、犯罪捜査、株式投資等にもこのことはあてはまるらしい。例えば株式投資については、データ量が3000か月(約250年)をであれば、「ポートフォリオ最適化」などの投資法則よりも「1/Nルール」などのほうが結果が良いという。(※ポートフォリオ最適化とは、簡単に言えば収益率が同じと見なされる場合によりリスクの少ないほうを選ぶというような戦略。1/NルールとはNつの選択肢全てに均等に1/Nの資金を配分するという単純極まりない戦略。なお平均分散最適化という、直感的と言われる投資方法が本当に複雑なものの例として適切なのかは筆者にはよくわからない。)この手のことはスポーツの優勝者予測においても同様なようである。

 

 

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→参考:ある投資の本によれば、ROIC(投下資本利益率)などを用いる「洗練された」投資法は、自由度がありノイズがどうしても混ざる他の投資法より投資結果が良いことをデータで裏付けている。どこまで信頼できるのか不明だが参考までに。

 

 

 [3節] 翻って金融規制はどうか。残念ながら、規制は肥大化する一方である。国際的な大銀行に対する規制の指針にバーゼル銀行監督委員会が作る「バーゼル規制」があるが、最近作られた規制案「バーゼルⅢ」は616ページになってしまっているという。バベルの塔ならぬ「バーゼルの塔」という言葉があるのは有名だろう。

 [4節] この銀行規制を複雑にしている要因が二点ある。一点目は細かすぎるリスク加重方式、すなわち資産の種類ごとに細かくモデルベースのリスク加重を行うという規制である。資産ごとのリスクを細かく加味し、リスクに応じた自己資本を求める規制は最適なのか。(いわゆるリーマンショック前後の銀行破綻に対する指標の関連性を調べるため、2006年末に1000億ドルを超える総資産を保有していた巨大国際銀行約100行をサンプルにした)計量分析を行った結果では、最適ではなかった。投資やスポーツの結果予測のように、簡素な「レバレッジ比率規制+単純加重方式」のほうが有効だったようだ(p.13)。(※レバレッジ比率は高いほうが健全。例えば「レバレッジ比率 3%(= 3/100)以上」は「レバレッジ 33 倍(= 100/3)以下」となる(鈴木, 2014))

 

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→左は細かいリスク加重方式の自己資本比率指標、右は単純なレバレッジ比率の指標である。左の指標は生存銀行と破綻銀行の間に有意差がないが、右の指標は差が有意にでている。

 

 

 

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 そして二点目の複雑化の要因は資本の定義である。簿価か市場価格か、どこまでを資本に含めるかなど。これについても、実際には比較的単純な資本指標(コアTier1)のほうがより包括的で複雑な資本指標よりも予測力が高いことが裏付けられた。市場価格の単純な合計のほうが良いとの結果が出たという。

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 [5節] さて、単純な規則は複雑な対象には有効であった。ではより単純な対象、簡素で小規模なアメリカの銀行(ここでは連邦預金保険公社加盟銀行が題材)に対してだとどうだろうか。この場合、残念ながら前節までのリスク加重方式とレバレッジ比率とを用いた指標の優位性が逆転してしまった。なぜだろうか。

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 ここでは二つの仮説が考えられるとしている。一つは、既にレバレッジ比率規制があったので、同様のレバレッジでより収益を高められるようにリスクの高い資産保有をするようになっていた、そのため銀行のリスクがリスク加重方式に反映されやすくなったというものである。もう一つは、対象にした地銀が単純なものだったため、複雑な規則が有用だったというものである。どちらが正しいのか。

 結論から言えば、この場合でも単純なルールが有用であることが示されたから、二つ目はあまり妥当でないことが示された。ちなみにここでは、銀行の健全性を調べるポピュラーな枠組みである「CAMEL」を使ったデータ分析がされている。CAMELとはCapital, Asset quality, management, efficiency, liquidity の頭文字をとったものである。これらの指標全てを包括的に調べた結果と、どれか一つの指標を調べた一面的な銀行健全性と、どちらが健全性評価に有用なのかを調べたら、第一にサンプル数が小さいほど単純なほうがいいこと、そして第二に複雑な指標に単純な指標が勝つかどうかは、選ぶ指標次第だという結論になったという。単純な指標もものによっては十分に包括的な指標に勝り得るということだ。

 

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→100行のサブサンプルで作った予測ルールの場合、(赤い棒グラフで表されている)単純なものの予測誤差の少なさは歴然としている。一番左のCAMEL全てを考慮した予測ルールは、(青い◇の通り、)元とするサブサンプルに対しては極めて当てはまりの良い精緻なモデルになっているが、全体に当てはめてみるとひどいずれが生まれている()。

 

 

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→サブサンプルを1000行にしてみると、指標一つだけの単純なルールと包括的なルールの予測力の優秀さがほぼ逆転した。ちなみに、それでもLiquidity(流動性)の指標だけはなお優秀である。(3つの枠線は下の図のチャートに対応させている。)

 

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→サンプルサイズを変えていくと包括的な予測ルールの予測力が急激に上がり、一面的で単純なルールの優位性が相対的に小さくなることがわかる。なおLiquidity Indicatorだけは例外らしい。

 

 

 [6節、7節は省略させていただく。]

 

 [まとめ] したがって結論としては、この論文では近年金融規制があまりに過度に複雑化していること、そして理論上のことに囚われず、現実には金融規制を単純化したほうが望ましいであろうことを実証分析を使いながら結論付けている。政策の中身には深入りしなかったが、銀行の安全性を効果的に規制するにはレバレッジ比率と、資産を単純加重方式で測った自己資本比率を同様に重視し、その最低ラインだけを単純な方法で規制するのが良いという。そしてそれ以上のリスク管理は民間機関の実務に任せるべきだとする。流動性指標が有力だろうという示唆が含まれているのも興味深い。

 私情ではあるが、この論文にもあるように、不確実な世界における「単純なルールの優位」はフランク・ナイト、フリードリヒ・ハイエクミルトン・フリードマンハーバート・サイモンその他多数の碩学が力説していることであるから、金融規制に対してもそれが当てはまることを示したこの論文はどこかで紹介したいと思ってきた。金融危機が起こる度に規制の強化が行われてきたが、規制をいたずらに増やしても、金融を統制しようと試みても危機予防にはむしろ有害なのである。最後になるが、煩雑な規制自体が不確実性を高め、時には危機さえもたらす可能性があることを改めて読者には伝えたい。

 

 

(参考文献)

鈴木利光(2014)「『レバレッジ比率』とは?」大和総研

https://www.dir.co.jp/report/research/introduction/financial/basel3/20141208_0                 09229.pdf

スピッツナーゲル, マーク(2016)『ブラックスワン回避法:極北のテールヘッジ戦略』(長尾慎太郎、藤原玄訳)パンローリング

Haldane, A., & Madouros, V. (2012). The dog and the Frisbee. Bank of England. In Speech given    at the Federal Reserve Bank of Kansas City’s 36th economic policy symposium, “The      Changing Policy Landscape”, Jackson Hole, Wyoming.

                 https://www.bankofengland.co.uk/-/media/boe/files/paper/2012/the-dog-and-   the-frisbee.pdf?la=en&hash=4DEAA2E6D1698A1A0891153A6B4CE70F3083
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参考:「犬とフリスビー」目次

(1)  Introduction

(2)  When Less is More

 (a) The costs of cognition

 (b) Ignorance can be bliss

 (c) Weighting may be in vain

 (d) Small samples and simple rules

 (e) Complex rules and defensive behavior

(3)  Finance – More is More?

 (a) The Tower of Basel

 (b) The Legislative Blanket

 (c) The Regulatory Response

(4)  Risk-Weighting Capital – Simple or Complex?

(5)  Predicting Bank Failure – Simple or Complex?

(6)  Modelling Financial Risks – Simple or Complex?

(7)  Public Policy – More or Less?

 (a) Reconstructing the Tower of Basel

 (b) Leverage versus Capital

 (c) Pillars 1, 2 and 3

 (d) Taxing complexity 

 (e) Structural change

(8)  Conclusion

〈新入生諸氏へ〉或る会員の独白   政治経済学部1年 (匿名希望)

 

会員はコラムを書かねばならない。だが、残念なことに、筆者の頭のなかをいくら探しても、語るべき何かが出てくる気配はない。困った。3月16日、丁度午前零時。おそらく、筆者だけではないと思うのだが、眠くなってくると〈自分〉の境界が溶けてきて何が何だか分からなくなってくる。このコラムも、その勢いで筆を執っているようなものだ。コラム執筆を呼び掛けている演練幹事のS氏には、大隈塾(多分、ウェブで調べれば情報が出てくる。筆者は半年しかいなかったが、輝く新入生にはオススメである)でもお世話になったし、そもそも普段あまり活動に参加していないのだから、こういうときに役に立たなければ、紛うことなき役立たずである。

 役立たずといえば、ここで誰にとっての役立たずなのか、という疑問が生じてくる。はて、書いていて自分でも分からない。ううむ、気になる。書くべきテーマもないので、少し考えてみることにしよう。

やはり、世間だろうか? そもそも、世間の役に立つとはどういうことだろう。生産性か? それならば、一部の例外を除いて大学生が生産性を兼ね備えているはずもない。大学生は何も知らず、無力である。ゆえに、生産しない。むしろ、その無生産性に特徴がある人種である。若さに価値があるとすれば、それは何も持たない点に尽きる。自らが最も鋭く研ぎ澄まされており、鈍った先代に対して優位であるという考えこそ、若さの成せる技であり、青き春ここに極まれりと感慨深い。強いて言えば、半人前ゆえのゴツゴツした鈍さにこそ価値があるのではないだろうか(と偉そうに書いている時点で筆者の器のサイズがお分かりいただける)。閑話休題。つまり、筆者はまず世間にとって役立たずである。

他はどうだろうか、雄弁会内……幹事会は? 幹事会とは我が雄弁会の運営を担う合議体であって、絶大な権力を有している。おや、確かに何か幹事会の役に立った記憶はない。せいぜいチラシを作った程度であるが、それも幹事諸氏の膨大な職務に比べれば易しいものである。なんとも恐るべきことに、すぐに答えが出てしまった。幹事会の役にも立っていないようだ。

そういえば、役に立ってはいないが、一度も幹事会から文句を言われたことはない。なぜだろうか。もしかしたら、それは雄弁会独特の寛大さに起因するのかもしれない。役職者とは権力と引き換えに責任を負い、あまつさえ他人の人生まで背負う損な役回りである。政治の場を深く見据えんとする会員にあって役職を望む者に、「役立たずだからヤツは迫害してやる」などという幼稚な考えが芽生えようはずもない。実際に現在はO幹事長が君臨しているが、彼はト○ロのように人格者(だと筆者は思っている。さらにいえば、トト○の人格は知らないが、多分寛大で優しいのだろう)であるから、少なくとも筆者は迫害されていない。まったくありがたいことである。

はてさて、再び脇道に逸れてしまった。本題は何であったか。そう、筆者は誰にとって役立たずなのかという極めて不毛な議論であった。

ここまで述べてきた通り、基本的に誰かの役に立っているということはなさそうである。ううむ、困った。……いや、待て待て。どうやら一人くらい役に立っている者がいそうである。そう!(大根役者っぷりは文章にも滲み出るようだ)当然、入会を選択している以上、自分自身の役には立っているであろう。この「誰の役にも立っていないとしても、自分の役には立っている」という記述には、一見違和感があるかもしれない。だが、新入生諸氏、あえて言おう。とりあえず今はそれでよいのである。もし読者諸氏が「他者のため」と感じたとき、一度立ち止まって、心の内を顧みてみるのが良かろう。善意ほど取り扱いの難しいものはない。ちなみに、同じく取り扱いの難しいものに、正義感と正論がある。何はともあれ、まずは「自分の役に立っている」こと、いわば利己性を自覚すること。そのうえで、枝葉を広げていくのが良いのではないか。

さて、深夜の勢いで書いた偏見に凝り固まった文章も、そろそろ幕引きとしよう。いよいよ、〈自分〉に続いて〈本題〉と〈余談〉の境界も溶け始めた。時刻は午前1時。これ以上つらつら駄文を連ねるとお叱りを受けそうなので、箇条書きにしておく。

一、世間の役に立たない→半人前だからこそ、我々は学び、実践する。

二、幹事会の役に立たない→一見保守的な雄弁会だが、そこには寛容さが潜んでいる。

三、自分の役に立っている→その主観性を普遍性に開いていく。そこにコミュニケーションたる弁論の面白さがあるはず。

 

改めて新入生諸氏、ようこそ雄弁会へ。

 

 

以下、補足。

[補足①]当然、大学生に生産性がなくても、将来的に生産性を発揮する能力を育てるわけであり、厳密には生産性がないわけではない。だが、深夜なので許してほしい。

[補足②]大学生について、何も持たない=先入観がない/しがらみがない/身軽=鋭いという論も成立するし、そもそも大学生に関する本稿の記述はことごとく非論理的、主観的、恣意的である。だが、深夜なので許してほしい。

[補足③]幹事会の記述を読むと、まるで媚びへつらっているようであるので補足しておく。筆者から見て諸先輩をはじめ会員諸氏は味があって大変好ましい。幽霊化しつつある筆者が会費を払い続けている理由は、ひとえにこの人的関心にある。筆者は基本的に会員に対して好意的であり、幹事会だけおだてているわけではないのだ。

[補足④]他者の話の価値を決めるのは読者諸氏である。こんな文章くだらないと思えば、さっさと忘れてくださってよい。だが、雄弁会の価値については、他の会員のコラムも読み、出来れば新歓活動に参加し、実際に話をし、そのうえで判断してくださると、この上なく嬉しいものである。

社会保険の理念とその政策含意  赤澤 航真(政治経済学部1年)

現在の社会保険制度は複雑で不透明で不公平で損得が生じており、本来の社会保険からはほど遠い。そしてそのことが「中福祉低負担」(例えば中島, 2014)などと呼ばれる、社会保険の大原則たる「給付にみあった負担」がなされないという状態を生んでいる。なぜこうなってしまったのか。そしてどうすればいいのか。結論を先取りすると、多くの問題は理念に背く「再分配」を余儀なくされていることに起因している。本コラムでは、この問題の向かうべき方向性、持つべきビジョンを、極力単純化しつつ理念に立ち戻って考えてみたい。

 社会保険の理念とは、特定のリスクに対し国民全体で公平に負担・連帯して備えることであり、したがって「負担と受益を(個人レベルで)均等させること」である。詳細は省略するが、保険である以上保険料負担と保険金の期待値は等しくなければならないし、また不確実性や不均等を避けるため加入者はある程度多くなければならないからである。この理念が一貫して順守されれば公平・中立・簡素な制度になるはずだし、年金・健康保険財政が危機に瀕することもない。

 これを踏まえて現行制度の状況を見れば、複雑さや不公平さといった問題が、直接的にはこれらの理念、つまり「負担と受益の対応関係」がないがしろにされていることから生じているのがわかるだろう。具体的には資金の流れが不透明なことや、負担に見合った給付に必ずしもなっていないこと、さらには国民全員を負担者・受益者に包摂できていないことを指摘できる。公的年金制度には国民年金や厚生年金、基礎年金などといくつもの勘定(保険料を集めて管理する口座のようなイメージのもの)があるが、その資金は国民から離れたところで、いわば国民のあずかり知らぬところで(莫大な公費の投入も含めて)動かされているのが現状である。健康保険制度はさらに複雑で、一応都道府県単位とされることになった地域保険(国民健保)といくつかの職域保険(組合健保や協会けんぽ)、それと75歳以上が加入する「後期高齢者医療制度」などが乱立しており、それらの間で資金の移転が行われている。

 このように国民から見えづらい制度間再分配が行われる背景には、何よりも勘定や保険が乱立していることがある(加えて全国民に保険料を負担できるだけの経済力があるわけではなく、したがって「定率負担(応能負担)で労使折半の保険制度」の維持と適用促進が根強く主張されていることもこれらの制度乱立が整理されない一つの背景だと思われるが、それらの保険制度は再分配が不足しているからもてはやされるだけであり、社会保険制度としては問題がある。再分配制度については税制などまた別の話なので本コラムでは触れないこととして、本コラムでは社会保険制度の理念実現に論点を絞ることをお許し願いたい)。基礎年金を(年金「未納」者以外の)全国民に給付するという「国民皆年金」制度は存在するが、不気味なことに一定額の保険料が「基礎年金」として全国民から徴収されていたりするわけではない。徴収は国民年金と厚生年金という別々の形で行われており、そこで集めた保険料を「基礎年金」勘定にいったん集めて(拠出金を集めて)高齢者に配っているのである。保険料の流れがわかりにくいし、何より本来の意味での「年金二階建て」になっていない。

 

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(出典:厚生労働省, 2017)

 

 

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(出典:西沢, 2011)

 

 

 

 

 そのため制度改革、とりわけ簡素化を行うならば、相互依存的な現状の諸制度を分立させるか一元化させるか、このどちらかが必要になると思われる。ただし分立を選ぶ場合、協会けんぽに1.2兆円弱の国庫補助があること(メディ・ウォッチ, 2016)や、健康保険組合ごとに保険料率が大きく異なるなどという不透明性・不公平性は解消されない。年金制度も二階建てをやめ、国民年金と厚生年金を分割するという話になる。

 したがってもし、国民全員に基礎年金の負担と受給を課す実質的な「二階建て」化を目指すのであれば、入口の保険料負担のほうも20歳以上の国民全員に対して義務付けなければならない。現状はいわば特権的に払う必要のない第三号被保険者(厚生年金に加入している扶養内の配偶者)や払うに払えない低所得者、厚生年金に基礎年金分を納めているため払う必要のない厚生年金加入者も含めて、現在の国民年金加入者のように、基礎年金の保険料約16000円ずつを徴収すべきである。そうすれば年金制度を真に二階建てにすることができ、厚生年金から基礎年金への所得移転も必要がなくなる。現状の厚生年金は基礎年金分も含めて一括で徴収しており、したがって年金を支給する際には厚生年金勘定から基礎年金勘定に一定額を移して、そこから一階部分(基礎年金)を支給するという仕組みになっている。ひと月の所得のうち9万8000円分にかかる厚生年金保険料(労使合わせて所得の約18%ほど)は国民年金の保険料(月約1万6000円分)とほぼ同じだと見なされているので、そこまでは国民年金(基礎年金)として徴収すべきではないか。(ちなみにこの場合、今まで使用者負担だった保険料 月8000円ほどが自己負担になってしまう点には注意が必要である。)また厚生年金加入者(第二号被保険者)に扶養される配偶者(第三号被保険者)についても、(現状は保険料を払わずとも基礎年金をもらえるのだが、)もちろん他の人と同様に基礎年金に見合う額は納めるべきだろう。専業主婦・主夫等の優遇は時代錯誤的だし、何より納められた厚生年金と国民年金が基礎年金として集められ再分配される過程で、他人の納めた年金がこれらの人にまで払われているからである。なお基礎年金は満額でもたったの年間78万円、月額にして6万5000円ほどだが、それでも国民年金の保険料は定額負担であり、低所得層には重い負担である。実際未納や免除も多く、基礎年金の平均受給額は5万5000円ほどだと言われる。ただだからといって非正規労働者の保険料を定率負担にすれば低年金の高齢者が大量にでてくることになるし、かといって「年金を再分配しよう」などという裁量を挟むと一層不透明化する原因になるので、保険料負担の軽減政策に関しては前述の通りまた別の政策介入を必要とする。

 

 健康保険制度についても、理念から言って公平な個人負担(応益負担)、安定した保険財政、それにわかりにくい資金移転をしないこと、この三点が必要である。そしてそれらを実現するのであれば、地域保険への一元化が必要だろう。

 まず、地域保険である。本来は自営業・農林漁業者向け保険のようだがここでは地域保険とする国民健康保険と、職域保険である協会けんぽや組合健保では、個人の負担が大きく異なっており、公平性に欠けている。国保は家族が増えると(0歳児でも)保険料が増えるし、会社負担はない。国保は端的に言えば保険料が「ひと世帯いくら+一人いくら+所得に応じて何%」というふうに決まるためである。職域保険の場合、世帯主が加入していれば子供や主婦といった被扶養者は保険料を払わなくても健康保険の恩恵を受けることができる。さらに労使折半なので、勤め先の企業も保険料を半額負担してくれる。そのような応能負担(定率負担)での職域保険と比べると、国保は逆進性が極めて高く、しかも市町村によっては保険料を年間3,40万円以上取られる場所もあるので滞納も相次いでいる。だからこそ国保より協会けんぽの促進を、と言われることがあるが、上述した理念から言えばそれは都合の良い議論ではないだろうか。職域保険だけ子どもや主婦だから免除するというのは負担と受益の関係を崩しており望ましくない。そのような低所得層の保険料負担に対しては公平な社会保障給付などで対処することこそ必要なのであり、都合よく事業主負担や扶養制度をするような形で社会保険を歪めるのはおかしい。そもそも現状でも滞納が多く、保険料免除等の制度も不十分なのである。公費投入も明確に低所得層のためとしてなされているわけではないのだから、無闇に乱立した制度の維持をやめ公費投入も全廃して、同時に他制度による根本的な再分配制度の整備に着手せねばならない。それをせず「応益負担は逆進的で弱者に厳しい」などといっても何ら説得力がない。

 そして、資金移転の元凶はやはり制度・保険者の乱立である。後期高齢者医療制度は75歳に達した人を新しく受け入れる「医療制度」であり、趣旨からして保険料収入によって成り立つ保険制度ではない。また国保は退職した前期高齢者、無職者や自営業者、協会けんぽ等に加入する資格(この資格の基準は労働時間が関係するようだが、半ば恣意的に決まるものらしい)のない非正規労働者等を受け入れるものであるので、当然のように保険料が不足するような制度設計になっている。そのため他の保険や税金から納付金や支援金をもらわざるを得ない。支援金を出す側の組合健保も負担に耐えかね自主解散を選ぶことが増加していることを考えても、職域保険は都道府県単位の国保に統合するのが結局は合理的だと考えざるを得ない。保険料負担の水準が福祉の水準に比べて大きく低いことが揶揄される日本であるが、まずは国庫負担をなくし、さらに制度を簡素化して負担と受益の関係を明確にして初めて、国民が納得できる保険料水準がわかることは指摘しておきたい。

 

 

 

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→組合健保では高齢者向けの拠出金が累増しており、純粋な保険給付の占める割合が低下している。

 

 

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→もちろん各健康保険組合ごとに事情は異なるが、保険料収入の4割以上を拠出金にまわす組合が約71.7%にものぼっていることが以下のグラフからわかる。 

(出典:健康保険組合連合会, 2017)

 

 

 

 以上が簡素で公平な社会保険の実現のための筆者なりの政策指針である。この実現には、国民年金への加入を全国民に義務付けることと、健康保険制度の地域保険への一元化が最低限必要になるというのが本コラムの主張である。最後にここで書けなかった課題を述べておきたい。公的年金の受給を世代に関係なく公平にするには、積立方式への移行等を含めた議論をする必要がある。そして応益負担を実現するには、税控除も含めて税制を見直して、再分配制度を整備しなければならない。さらに、保険者は医療費を抑え加入者の健康を促進する役割が求められるが、本コラムではその手の議論を完全に捨象しており、各保険組合の自治を重視する立場からすればあまりに乱暴な議論だろう。これらについて論じることが今後の課題である。

 

 

 

 

 

まとめ

 社会保険の問題とは負担と受益の対応という理念をないがしろにされていることであり、それはすなわち他制度への拠出金、中央・地方政府からのわかりにくい公費(税金)投入による制度間再分配の問題だと言える(これには未納者の年金がかえってこない問題も含めることができる)。そしてその原因は主に勘定の乱立と負担能力格差の2つである。

 だからこそ、全国民に基礎年金を配るのであれば、基礎年金の保険料徴収も全国民から例外なく約16000円ずつなされるべきである。そうすれば結果的に二階建てにはなるし厚生年金から基礎年金への不要な所得移転も必要なくなる。また健康保険制度の拠出金や支援金も、根本的には年齢や所得、被用者かどうかで加入する保険が変わり非合理な不均衡が生じるのが原因なのだから、(20歳といわず)0歳から後期高齢者まで同じ地域保険に加入するようにすべきである。

 

 

参考文献

健康保険組合連合会(2017)「平成 29 年度健保組合予算早期集計結果の概要」

                 https://www.kenporen.com/include/press/2017/20170414.pdf

厚生労働省(2017)「平成29年度版 厚生労働白書」

              https://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/kousei/17/dl/all.pdf

中島厚志(2014、12月22日)「低負担低福祉か、中負担中福祉か 消費税増税先送りで問われる日本の福祉国家像」Wedge Infinity(最終閲覧日:2018年3月15日)

              http://wedge.ismedia.jp/articles/-/4568

西沢和彦(2011)『税と社会保障の抜本改革』日本経済新聞社

メディ・ウォッチ(2016、7月12日)「協会けんぽ6年連続黒字決算、準備金も1.3兆円に膨らみ、保険給付費等の1.9か月分に―全国健康保険協会

(最終閲覧日:2018年3月15日)

                 https://www.medwatch.jp/?p=9616

 

 

義理と人情とチョコレート   志田 陽一朗(政経1年)

「義理」という言葉を初めて知ったのは、「義理チョコ」という言葉を聞いたときであったと記憶している。当時、東京都の北区王子に住んでいた記憶があるから、おそらく小学校の2年生か3年生だったのだろう。

 

 当時の私には、「義理チョコ」は「ギリチョコ」としか聞こえなかった。最初は「ミルクチョコ」や「ビターチョコ」の仲間だと思い、「ギリ」という名の甘いものを探して百科事典をめくった(当然、そんなものはなかった)。どうも違うな、と思い友達に聞いてみたところ、どうやら「ギリ」の反対は「ホンメイ」というものらしく、「ギリ」より「ホンメイ」の方が価値が高い、という事だった。

 

ホンメイ」と口に出すときの、彼女(女の子だった)の照れくさそうな顔が浮かぶようである。本当にそんな顔をしていたかどうか確認する手段はない。

 

 

 しばらくしてバレンタインデーというイベントの何たるかを知った私は、頭の中に「義理=本命の下位互換」という思考回路をしっかりと構築した。以来私は、女の子からチョコをもらうたびに、「これは義理だろうか、本命だろうか」と、トレーディングカードのレア度を推し量るかのように邪推するようになった。「恋」という言葉を知る前であった。

 

 母親同士がママ友であるというだけで私(と弟)に手作りチョコを渡す羽目になった近所の女の子が、「はい、義理チョコ配るね~」と言った時の憮然とした顔が目に浮かぶようである。これはれっきとした事実である。私の目に狂いはない。

 

 

 そうこうしているうちに、私は中学生になった。私は社会の先生が好きであった。腹黒いトム=ハンクスみたいな雰囲気のおじさんで、いつも冗談ばかり言っていた。優秀な私といつも比べてイジられ、弟は閉口したようである。

 

 歴史の時間、その先生が私を指して言った。

「なぜ赤穂浪士は吉良邸に討ち入ったかわかるかい?」

「そりゃ先生、主君の敵討ちでしょう。」

「違うなぁ。志田くん、『忠臣蔵』は義理と人情の物語だよ」

「ニンジョウ?『人情チョコ』ってのもあるんですか?」

 

クラスメイトはどっと笑ったが、誰もニンジョウなるものについては教えてくれなかった。

ムキになった私は、以来現在に至るまで、「義理」と「人情」を辞書で引いていない。

 

 

 さらに時は流れ、2019年の2月14日。日本中でチョコが乱れ飛ぶ中、私はバイトに精を出していた。

 

 いつもは男女比が5:5くらいの職場なのだが、この日に限っては男性しかいなかった。女性陣全員リア充説がまことしやかにささやかれる中、私はある一つの確信を抱いていた。

 

「なるほど、これは女性陣への配慮だな」と。

 

 

 近頃は「チョコハラ」なる言葉があるそうである。「チョコレートハラスメント」の略だ。聞いただけで何となくわかるというものだが、要は「『義理チョコ文化』を押し付けるな」ということである。この「チョコハラ」特集を朝のニュースで見かけていたので、これは女性陣がリアルの都合で今日を空けたのではなく、シフトを組む側が配慮したのだなと思い当たったのだ。随分失礼なことを言っているようだが。

 

 

 しかし思うのだが、その「義理チョコ」は本当に「義理チョコ」なのだろうか?

 

私の母は毎年「チャーリーとチョコレート工場」に出てくる「ウォンカ・バー」をくれる(ありがとう!)。これは「何チョコ」かと昔友人と議論したところ、「義理チョコ」だ、という結論に達した。モテない私を不憫に思い、家族としての義理の念からせめてカウンターを回そうという意図でチョコをあげているのだろうということだ。私は冷たい涙を流しながら納得した。

 

では、職場や学校で文字通り撒かれる「義理チョコ」は、いったい何なのだろうか。まさか討入参加者への粗品ではあるまい。本命チョコだけが送られるコミュニティは殺伐としてかなわんから、もう少し予算を増やして他の男子にもチョコを恵んでやろう、これが「義理チョコ」の発生源ではないのか。そこに、「いや、あの人に渡すならこの人にも渡すのが職場仲間としての義理ってもんだろう」という取り越し苦労的な「義理」を加えるから、「バレンタインデーは女性にとって負担である」という、チョコレート業者真っ青な世論が形成されるのだろう。ここに、「(義理)チョコ」が誕生する。

さらに、「仲間外れが出るのはかわいそうだ」という何とも日本的な「人情」が加わり、ただのチョコレートであったものは「(義理)・人情チョコ」という、文系を殺すようなスウィーツへと変貌する。

 

しかし安心してほしい。よくよく考えれば、クラスや職場の男女は義兄弟の契りを交わしたわけでも、運命共同体としての戦友でもない。中学の社会の先生(誹謗中傷な気もするのであだ名の連呼は避ける)が言っていたところの、「忠臣蔵」的義理はここには存在しないのである。

さらに言えば、「チョコがもらえない人はかわいそう」という発想は、冷静に見れば憐憫よりも軽蔑を多く含んでいる。要は「義理」も「人情」も虚構なのだ。

そうすると、「(義理)・人情チョコ」の係数は虚数ωの3乗、つまり1。

したがって、「義理チョコ」に仕立て上げられた純真無垢なチョコレートは、巡り廻ってただのチョコレートになる。

Q.E.D. 

 

 

と、ここまで書いてきた私が今年もらったチョコレートの数は、誠めでたき0である。

 

私はどこに討ち入ればいいのだろうか。

無題  滝口(仮名)(政経1年)

皆さんは、宇宙の大規模構造をご存知だろうか。

宇宙においては、無数の星が身を寄せ合って一つの銀河を構成し、またその銀河が集住して銀河群・銀河団を構成し、更にそれらが集まって超銀河団を構成している。その超銀河団が無数に存在しているのが我々人間、あるいは我々日本人が宇宙と呼ぶ存在なのである。宇宙という場において個々の存在は決して平板的・遍在的分布をしているわけではない。先ほども述べたように、それらは集団を形作っており、さらにその上位集団が幾重にも重なる、というふうにして存在している。

 

この構造が何かに似ていると思った読者もいるのではないだろうか?そう、それは他でもない我々の社会構造である。なんとも不思議なことである。ここで仮に、私たちの社会を無数のクラスターが集まったクラスター社会と呼ぶことにしよう。そして、そのクラスター社会としての性質を最も顕著に表す単純で純粋なモデルとして、SNS、より具体的にはTwitterが挙げられると私は考える。Twitterにおいて個々のユーザーは決して意見の壁打ちをしているのではない。ユーザーはフォローフォロワーの関係を結び、そしてその集合体としての界隈=クラスターを構成している。このSNSが持つ役割を考えてみると、それはクラスターを強固にすることと、本来なら交わるはずのない性質の異なるクラスター同士を出会わせる、という二つの相対する役割を持っているように思われる。順番に説明しよう。

まず、一つ目の役割についてであるが、自分と似たような意見を持つ人間が集まれば、その意見はより純度を増し、確信を帯びたものになっていくのはわかっていただけると思う。ネトウヨと呼ばれる集団を思い浮かべて貰えばわかりやすいだろう。そういった役割が一つ。

そして次に、二つ目について。Twitterにおいては、リツイート機能によってクラスターの周縁から中心に向かって異なるクラスターからのメッセージが届くことがある。これは、現実世界で言うところの交易に相当する機能であるといえる。そこで意見が異なるもの同士の議論が発生するわけであるが、ここでの議論とはより良い意見を見定めていこうと言う性質の(ハーバーマス的)熟議ではなく、どちらがより“正しい”か、という正義をめぐる闘争に近い性質のものである。ここでの意見はボールではなく銃弾であり、“こちらがわ”と“あちらがわ”の間には深い深い溝が存在している。リリスの子である人間とアダムの子である使徒の間の戦闘が避けられないように、身体は闘争を求める。そして、アーマードコアの新作が出る。

閑話休題。昨年、デューク大学を中心とした研究グループにより、人はSNSで反対意見を目にすると従来の自分の意見をより強固に支持するようになるという研究結果が示され、人々に衝撃をもって迎えられた。これは、従来の熟議モデルへの挑戦となる結果ではあるが、同時に“確かにそうかもしれないな”と思わされる研究結果だ。人は自分の意見を変えたがらない。その傾向は、SNSにおいてより強固になるようだ。これは私の考えなのだが、SNS上では人々はある意味で“キャラ化”されている、ということがその一つの原因なのではないだろうか。つまり、人が本来持つ多面性というものがSNSでは自覚的あるいは無自覚的に捨象されており、単純ないくつかの属性に還元されているということだ。たとえば、フェミニストの人、とか、ネトウヨの人、のような具合に。そこでは、議論の相手が”同じ人間(生物)”ではなく“打破すべき意見(異質な物)”にみえても仕方がないのかもしれない。

無知の知という言葉があるが、人間は皆不完全な矛盾を内包した限界合理的な存在であり、そこにはそれを自覚しているか自覚しないかの違いしか存在しないのだということを忘れないでほしい。そのことに無自覚な人が自分の正義を他者にも強要してしまうのである。また一方でそれに自覚的な人であっても、そのことに関して無自覚な人を糾弾すればそれはそれで価値観の押し付けを行なっていることになる、ということに気をつけてもらいたい。結局のところ、人は皆罪からは自由ではなく、生まれながらにして罪の可能性を秘めた存在なのである。

こういうと、じゃあ結局どうすればいいんだよ?という読者からの声が聞こえてきそうなので、最後にその無力感が同時に希望の萌芽をも促してくれる、という話もしておこうと思う。つまり、理にかなった多元性が存在するということは、人には人の数だけ真理が存在するということだ。だから、僕たちは他者、つまり異なる真理を持つ存在の評価など気にせず、公共の福祉に反さない限り自らの真理を追求する自由がある、ということなのである。それぞれが好きなことで頑張れるなら、新しい場所がゴールだね。ありがとうございました。