ゴジラが来たら  志田 陽一朗(政経1年)

 

シン・ゴジラ」のヒットからはや3年が経とうとしています。庵野監督はいつになったらエヴァの続編を作ってくれるのでしょうか。「Q」の時には、まさか第2回東京オリンピックの実現に先を越されそうになるとは予想すらできなかったのですが…。

 

閑話休題。「もしゴジラが日本に上陸したら…」という問いは、それこそ日本人なら一度は考えたことがあると言っても過言ではないほど使い古されたものでしょう。初代「シムシティ」でも、「ALWAYS 三丁目の夕日」でも、ゴジラはご丁寧に我々の街に現れますし、それこそ使徒が攻めてくるという「新世紀エヴァンゲリオン」の設定だって、繰り返し来襲するゴジラのイメージが背後にあると言えます。

 

ただ、その考え方や現実性といったものは、常に変革しています。「シン・ゴジラ」の樋口真嗣庵野秀明両名によって、メーザー殺獣光線車や機龍(メカゴジラ)無しでも(とりあえず)ゴジラを止められることは分かったわけですし、何ならX JAPAN「紅」を演奏しただけでも最近のゴジラは止まるらしいです。現実世界で言えば、石破茂氏が「シン・ゴジラ」を批判しながら現実的な考察を繰り広げたりしています。

 

その一方で、われわれ日本国民のゴジラに対する無力さは変わりません。どんなに科学が進歩し、対ゴジラ用の戦略が整えられたとしても、光線一発、踏みつけ一回で我々など消し飛んでしまいます。「ゴジラが来たら」という問題は、わんぱくな少年少女や軍事マニアにとっては「こうやって倒そう」という前向きな結論につながりがちですが、残りの多くの人にとっては「どうやって覚悟を決めようか」、「どうやって最期の時を迎えようか」という問いと同じものなのかもしれません。

 

ならば、「ゴジラが来たら」という問いに考えを巡らせることは、「1分後に隕石が落ちてくるとしたら」、「日本が沈没するとしたら」といったオカルト的終末思想と同じなのでしょうか。私は、それは違うと思います。

 

そう考える一番の理由は、ゴジラが「生き物」であるからです。我々の生命の終了を告げるのは、隕石でも核ミサイルでもなく、生き物の活動だからです。「シン・ゴジラ」では、自衛隊でも米軍でも止められないゴジラを前に、茫然とした登場人物が「まさに人知を超えた完全生物か…」とつぶやくシーンがありますが、やはり相手が生き物かそうでないか、というのは、かなり重要な要素であると言えます。

 

ゴジラが人間の街を蹂躙し、あっけなく何千、何万という数の人命を奪っていく。そうした場面に出くわした人が抱く感情は、怒りや悲しみというよりも、諦めや悔しさなのかもしれません。自分をはるかに凌駕する生き物が、今まさに自分を超えようとしている。手持ちの策ではどうしようもない。何をしても歯が立たない…。

 

歴史を振り返ってみれば、「もはや相手のなすがままにされるしかない」、「立ち向かうのを諦めるしかない」といった状況に立った人は数多くいます。ホモ・サピエンスに駆逐されるクロマニョン人や、アッティラ王の猛威にさらされた小さな村の人々、覚醒したブロリーを前にしたベジータ等々…。そうした時に彼らが抱くのは、やはり諦念であり、悔しさなのです。

 

この諦めや悔しさといったものは、大地震津波に対して抱くものとは異なります。そうした天変地異に敵うものは、基本的にはいないからです。いくらゴジラといえども、火砕流や隕石には勝てないでしょう(在来線にタックルされて転んでいるようでは)。「生き物」という同じ土俵に立って負ける、「敗北者」の烙印を押されるということになれば、また違った感情が沸きあがってくるのです。なぜなら、今までそこで王者面をしていたのは、他でもない本人なのですから。

 

日々技術が発展し、自分たちには何でもできると(意識していなくても)誰もが思う今日この頃です。そうした現代にあって、「ゴジラが来たら」と考えることは、いままで淘汰されてきた者たちに思いを馳せると共に、「上には上がいる」という、ともすれば忘れがちな、一方でこの世では至極当たり前のことを再認識するいい機会なのではないでしょうか。