無題  滝口(仮名)(政経1年)

皆さんは、宇宙の大規模構造をご存知だろうか。

宇宙においては、無数の星が身を寄せ合って一つの銀河を構成し、またその銀河が集住して銀河群・銀河団を構成し、更にそれらが集まって超銀河団を構成している。その超銀河団が無数に存在しているのが我々人間、あるいは我々日本人が宇宙と呼ぶ存在なのである。宇宙という場において個々の存在は決して平板的・遍在的分布をしているわけではない。先ほども述べたように、それらは集団を形作っており、さらにその上位集団が幾重にも重なる、というふうにして存在している。

 

この構造が何かに似ていると思った読者もいるのではないだろうか?そう、それは他でもない我々の社会構造である。なんとも不思議なことである。ここで仮に、私たちの社会を無数のクラスターが集まったクラスター社会と呼ぶことにしよう。そして、そのクラスター社会としての性質を最も顕著に表す単純で純粋なモデルとして、SNS、より具体的にはTwitterが挙げられると私は考える。Twitterにおいて個々のユーザーは決して意見の壁打ちをしているのではない。ユーザーはフォローフォロワーの関係を結び、そしてその集合体としての界隈=クラスターを構成している。このSNSが持つ役割を考えてみると、それはクラスターを強固にすることと、本来なら交わるはずのない性質の異なるクラスター同士を出会わせる、という二つの相対する役割を持っているように思われる。順番に説明しよう。

まず、一つ目の役割についてであるが、自分と似たような意見を持つ人間が集まれば、その意見はより純度を増し、確信を帯びたものになっていくのはわかっていただけると思う。ネトウヨと呼ばれる集団を思い浮かべて貰えばわかりやすいだろう。そういった役割が一つ。

そして次に、二つ目について。Twitterにおいては、リツイート機能によってクラスターの周縁から中心に向かって異なるクラスターからのメッセージが届くことがある。これは、現実世界で言うところの交易に相当する機能であるといえる。そこで意見が異なるもの同士の議論が発生するわけであるが、ここでの議論とはより良い意見を見定めていこうと言う性質の(ハーバーマス的)熟議ではなく、どちらがより“正しい”か、という正義をめぐる闘争に近い性質のものである。ここでの意見はボールではなく銃弾であり、“こちらがわ”と“あちらがわ”の間には深い深い溝が存在している。リリスの子である人間とアダムの子である使徒の間の戦闘が避けられないように、身体は闘争を求める。そして、アーマードコアの新作が出る。

閑話休題。昨年、デューク大学を中心とした研究グループにより、人はSNSで反対意見を目にすると従来の自分の意見をより強固に支持するようになるという研究結果が示され、人々に衝撃をもって迎えられた。これは、従来の熟議モデルへの挑戦となる結果ではあるが、同時に“確かにそうかもしれないな”と思わされる研究結果だ。人は自分の意見を変えたがらない。その傾向は、SNSにおいてより強固になるようだ。これは私の考えなのだが、SNS上では人々はある意味で“キャラ化”されている、ということがその一つの原因なのではないだろうか。つまり、人が本来持つ多面性というものがSNSでは自覚的あるいは無自覚的に捨象されており、単純ないくつかの属性に還元されているということだ。たとえば、フェミニストの人、とか、ネトウヨの人、のような具合に。そこでは、議論の相手が”同じ人間(生物)”ではなく“打破すべき意見(異質な物)”にみえても仕方がないのかもしれない。

無知の知という言葉があるが、人間は皆不完全な矛盾を内包した限界合理的な存在であり、そこにはそれを自覚しているか自覚しないかの違いしか存在しないのだということを忘れないでほしい。そのことに無自覚な人が自分の正義を他者にも強要してしまうのである。また一方でそれに自覚的な人であっても、そのことに関して無自覚な人を糾弾すればそれはそれで価値観の押し付けを行なっていることになる、ということに気をつけてもらいたい。結局のところ、人は皆罪からは自由ではなく、生まれながらにして罪の可能性を秘めた存在なのである。

こういうと、じゃあ結局どうすればいいんだよ?という読者からの声が聞こえてきそうなので、最後にその無力感が同時に希望の萌芽をも促してくれる、という話もしておこうと思う。つまり、理にかなった多元性が存在するということは、人には人の数だけ真理が存在するということだ。だから、僕たちは他者、つまり異なる真理を持つ存在の評価など気にせず、公共の福祉に反さない限り自らの真理を追求する自由がある、ということなのである。それぞれが好きなことで頑張れるなら、新しい場所がゴールだね。ありがとうございました。