「内秘心書」 政治経済学部二年 中園丈

 どんな人も一生に一度は病気を患うだろう。そして病気はその人の身体もしくは精神に何らからの異常をもたらす。このような異常は病気の症状であり、現代医学ではこの症状に可能な限り早く対応することが治療の第一歩だと考えられている。

 ところが、症状に対する判断は人によって多少異なっている。37度の熱で病院に行く人もいれば、39度の熱で働く人もいる。かすり傷で救急車を呼ぶ人もいれば、肩を脱臼して平気な顔をする人もいる。私はここで彼らの判断を批判しているのではない、むしろ医学的専門性を持たない私たちに適切な判断を要求することこそ酷な話である。

 幸いなことに、身体的に表れる症状はある程度客観的に捉える事ができるのである。先ほど挙げた発熱の例が分かりやすいだろう。発熱の感じ方は本人にしか分からないが、体温計に示された数字から他者もどの程度の発熱なのか捉える事ができる。他者と症状の一部でも共有する事ができれば、それに対してより適切な判断を下すことが可能となるのである。

 しかし、私たちの精神機能やパーソナリティ、行動に関しては客観的に捉える事ができないもののほうがずっと多い。そして「正常」と「異常」の判断が判断する人の主観に左右されるため、非常に曖昧なものとならざるをえない。また普通と異なるという意味の異常のみならず、その個人の普段の状態と異なるという意味の異常もあることを注意しなければならない。ここでは精神的異常を心理的側面と行動的側面というふたつの捉え方を考えていきたい。前者はその人の主観的な心理状態であり、他者がそれを直接知ることはできない。本人が自身の気持ちや体験を伝えることで他者は初めて知ることができる。

 後者は態度や表情、動きを含めた行動に着目している。憂い顔、無口、無反応、他動多弁、混乱などがこれに当たる。他者が直接捉えうるものだが、その人の個性や性格との区別が非常にあいまいでしばしば見逃されてしまう。とりわけ個人を尊重するリベラルな社会においてはその人のあり方として位置づけられてしまう可能性が高い。

 一般的に心の病と呼ばれる精神疾患を治療するに当たって、この二つの側面から症状を見つけることはその第一歩なのである。特に行動における異常はその人の無自覚的な精神状態が表れることからその人の心理状態をある程度推測することができる。しかし、異なる精神状態から同じ行動が引き起こされることももちろんある。だからこそその人の精神状態を正しく捉えるためには、本人の気持ちや体験を知ることが重要である。

 このように精神疾患の症状が見つけにくい性質を持っているからこそ、私たちは常に身の周りの他者や自身の行動に注意を払う必要がある。そして自身の心理状態を常に自覚的に把握し、それを他者と共有することが重要なのである。