「野良犬の気持ち」

政治経済学部2年 仲條賢太

「どの作家が好きか?」という質問と、「どの作家を読んだことがあるか?」という二つの問いをかけられたとしたら、どちらの質問にも私は「遠藤周作です。」と答えるだろう。作家や文学者の中で、彼以外特別好きだと思う人がいないというのは、恥ずかしながらまともに読んだことがあるのは彼くらいしかいないから、というのが実際のところだが、普段は本を読むのをたいそう面倒臭がる私が、高校時代に自分でも意外なほど彼の著作を読んだのは、それだけ遠藤周作が好きだったからなのだろう。実は、遠藤周作にあこがれて慶応の仏文科に行こうかとも一時期考えたことがあるのだ。
つい先日、大学生になってからほとんど彼の文章に触れていなかったことに気づいて、彼の本を久しぶりに読み返してみた。
彼の作品は二つのタイプに大きく分かれる。いわゆる「狐狸庵もの」といわれるようなユーモアに溢れた楽しい読み物と、読んだ後しばらく顔が上がらなくなるような、ひたすらに暗く、陰鬱なタッチの作品たちだ。人間のグロテスクで醜い部分をさらけ出す、そんな印象をもつ作品が多い。よく彼の代表作として国語の教科書で挙げられるのは、後者の部類に入る『海と毒薬』や『沈黙』や『深い河』である。中でも『海と毒薬』は実はこの中の『海と毒薬』には続編がある。『悲しみの歌』という小説だ。しかも、遠藤が『海と毒薬』を書いてからこの後日譚を書くまで、約20年間もの月日が経っている作品で、舞台設定も『海と毒薬』の30年後になっている。
この『悲しみの歌』では、『海と毒薬』の中で米兵捕虜の生体解剖事件に関わった過去を持つ勝呂という中年の開業医と、正義の旗印を掲げて彼を追い詰める若い新聞記者の折戸、そしてイエス・キリストの姿を擬したフランス人のヒッピーのガストンを中心に、様々な登場人物が交錯しながら物語が展開されている。
あらすじはこうだ。以前は細々と医業を営んでいた勝呂であったが、折戸に30年前の「罪」を問いつめられたことがきっかけで、自らの過去と、現在の病院で内密に堕胎を行っていたことが、世間の目に曝されるようになった。そして、相次ぐ世間と折戸からの非難に、自責の念と人生への諦念を募らせた勝呂は、ガストンの説得もむなしく、首吊り自殺してしまう。
勝呂が自殺した神社の境内の木のそばに、一匹の野良犬が座っていた。犬は勝呂の死体と雨に打たれたまま、まるで死体の番をするかのように動かない。そして、野良犬は声なき声で語りかける。
(あんたには……この人の……哀しみがわかるか……)

『悲しみの歌』を読み終わった後、彼のエッセイにも目を通してみたところ、『悲しみの歌と』とても連関した文章があった。そのエッセイで遠藤は、エゴイズムや優越感に気づかないまま、他者への思いやりや優しさを忘れたまま、自分の正義を振りかざす人を「善魔」と呼んでいる。

こうした善魔の特徴は二つある。ひとつは自分以外の世界を認めないことである。自分以外の人間の悲しみや辛さがわからないことである。自分以外の人間の悲しみや辛さがわからないことである。(中略)
善魔のもうひとつの特徴は他人を裁くことである。裁くという行為には自分を正しいとし、相手を悪とみなす心理が働いている。この心理の不潔さは自分にもまた弱さやあやまちがあることに一向に気づかぬ点であろう。自分以外の世界を認めないこと、自分の主義にあわぬ者を軽蔑し、裁くというのが現代の善魔なのだ。彼らはそのために、自分たちの目ざす「善」から少しずつはずれていく。自分自身でも意識しないうちに、彼らは他人から支持される善き人ではなく、他人を傷つけ、時には不幸にさえする善魔になっていくのである。
             「善魔」より『よく学び、よく遊び』所収 集英社文庫 1987
 
遠藤が言うことはよくよく考えてみれば、いかにも当たり前のことなのかもしれない。そして、それは単なる相対主義に陥る怖さもはらんでいる。だが、自分の正しいと思って言った言葉が、正しいと思ってした行動が、どう他者へ影響を及ぼすのかに敏感になることを、忘れてはなるまい。ましてや社会を「あるべき」姿へ変革していこうと言っている雄弁会員である。善魔には無意識のうちに陥ってしまうのかもしれないが、それでも自分の「正しさ」を無前提的に受け入れてしまう自分を見つけたときは、そんな自分を軽蔑し、壊し続けていこうと思う。