「読むということ」文学部一年 大久保宅郎


あなたは日頃から本を読んでいるだろうか?

「はい」と答えられたあなた。では、あなたにとって読書とはいったいなんだろうか?


「読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。」
ショーペンハウアー『読書について』


本を読む理由は人それぞれ違う。
ドイツの哲学者アルトゥル・ショーペンハウアーは、読書とは他者の思考を辿ることに他ならないという。しかし、本当にそうだろうか。

小説を例に考えたい。多くの人々にとって、小説は娯楽のひとつにすぎない。文節を辿り、筆者の世界に入りこむことで、あたかも自分が主人公になったかのように思えてくる。

しかし、小説の楽しみ方はこれだけではない。


「自分は怒っている人間の顔に、獅子よりも鰐よりも竜よりも、もっとおそろしい動物の本性を見るのです。」
太宰治人間失格


この一節を読み、立ち止まるのか、読み飛ばすのか、読者の自由である。立ち止まるのであれば、どこまで考えるのか。

「人間って怖いなあ」― 純粋に感じるか。


様々な文脈を踏まえて、読み解くのか。
「『正常人』と『悪人』を全く異なった存在として捉え、『悪人』を別種の人類、あるいは非人間として捉える思想は、『人間性二元論』と呼ぶことができる。例外者を疎外し迫害しながら、『正常人』の平和共同体をつくるというこの思想は、下僕や女中を叱責しながら、自分たちの間では和気藹々とカード遊びに耽る貴族の行動様式に似ていないではない。(中略)『正常人』の人間の正体が獅子や鰐や竜であるならば、『狼や獅子』(ロック)であるアウトローと異なるところはない。ここに『人間は人間に対して狼』(ホッブズ)という性悪説人間性一元論が成立する。」
長尾龍一法哲学入門』


このように、小説は考えることにより様々な読み方が可能となる。もちろん、これまでの読書の記憶を総動員して、(ショーペンハウアーの言っているように)他者の英知を借りることも可能だ。(長尾がその例だろう)

小説は実に種々雑多な色をしている。だからこそ、十人いれば十色の読み方がある。

この世に生を享けてたかだか四半世紀弱の私が読書について語るのも烏滸がましいかもしれないが、私にとって読むこととは、考えることである。小説に限らず、あらゆる本を読むときに自分で考えながら読むことが私の本の読み方である。


「ものごとにはすべからく理由というものがあるのだ。」
村上春樹世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド


普段、無意識的に行っていることも、ふと意識的になってみることで新しい発見があるものだ。読書にもそれが言える。読書に限らず、自分がなぜその行動をとっているのか、あらためて問い直してみるのもおもしろいかもしれない。



本文中の引用は下記を底本とした。
ショウペンハウエル(1983) 『読書について 他二篇』 岩波書店岩波文庫
太宰治(1990)『人間失格集英社集英社文庫
長尾龍一(2007)『法哲学入門』講談社(講談社学術文庫)
村上春樹(1988)『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド〈上〉』新潮社(新潮文庫