「グローバル社会に活きる早稲田精神」教育学部三年 二ノ宮裕大

「早稲田精神」早稲田で学ぶ、もしくは学んでいた人ならば一度は聞いたことがある言葉だろう。言うまでもなく、早稲田大学に学ぶ人々ならば当然持つべき精神を意味するのだが、ではその持つべき精神の中身とは何か?何故それが持つべきといえるのか?……この行き詰まりは「早稲田精神」という無形の言葉について一度でも思索を巡らせた経験があるならば、一度でも直面したことがあるのではないだろうか。
 
「早稲田精神」は単純に定義することが困難なのである。その理由は早稲田を捉え直すことで理解できるだろう。早稲田は元来より様々な学生が集まり散じる場所であった。実際、地方出身者が占める割合は他大学と比較しても非常に多く、例えば1960年台では3分の2以上が地方出身者である。その上、首都圏出身者率が高い近年であっても、留学生や帰国子女は増加の一途を辿る。つまり、お互いのバッググラウンド、価値観が異なる学生が多く存在していた。
 この様な状況下では、早稲田の杜にて学びに励んでいることこそが数少ない、彼らの共通項であった。何か特定の空気、風潮に流されることもなくーー早稲田としてイメージし易い、学生服を羽織る”典型的”バンカラ学生となるだけではなく、多様な人々が学び励んでいた。以上で示した早稲田らしさを鑑みるに「早稲田精神」とは単純に定義することが困難といえる。

では「早稲田精神」とは一体何を指すのか?それは、個人がそれぞれ持つ価値観に従う気構えである。平易に言えば、「自らの考え方に従って動こうとする心持ち」が「早稲田精神」の本義である。その上で相手の行動を阻害することなく、相手の「早稲田精神」も認めることも欠かせない。そこで初めて、早稲田にいる人々が「早稲田精神」を持つことができるからである。

そして「早稲田精神」は、現代のグローバル社会においてこそ極めて重要であるといえる。グローバル社会では、様々な考え方を持つ人々がお互いにコミュニケーションし、影響を与え合うことから、社会は極めて流動的である。この様な状況では、個人は単に社会に順応するだけでは困難が生じる。なぜなら、個人が社会に順応するのみでは社会にいる他者とのコミュニケーションは双方向ではなくなるという理由が挙げられる。そのことが意思疎通を困難にさせ、流動的で変容し続ける社会に適応して行くことができなくなる。
 
さて、「早稲田精神」はグローバル社会で如何に重要といえるのだろうか。それは、自らの考えに真摯に従い行動しながらも、相手の考え方を認めるという点にある。それこそが社会に適応する際、大きく資するのである。これは、積極的に他者の考えを聞き、相手に自分の考えを伝えなければならないグローバル社会だからこそ、重要となる。我々は違う文化圏の人々と接する際、相手がどの様な思考様式しているのか、同じ文化圏の人々より想像することが難しい。そこでは自分の立場を鮮明にしながらも相手の考え方を引き出すことで、初めて適切なコミュニケーションが可能となる。つまり、自分の考えを確固として持ち、相手の考えをも認める姿勢がより円滑なコミュニケーションを可能にするのである。

「早稲田精神」とは単なるファッションでも、画一的な思考様式をもたらす通念でもない。古臭さを何処かしらから彷彿とさせる「早稲田精神」ではあるが、寧ろその根幹部分は、社会をより良くするためには必要不可欠なものといえる。逆に言うならば、「早稲田精神」は外形的であってはならない。外形的、つまりファッションではなく、本質を理解した状態でなければならない。そのために、改めて「早稲田」とは何か、問い直す必要がある。それこそが早稲田大学を、社会をより良くすることに繋がるのではないだろうか。