「拝啓 大嫌いな凡庸様」法学部三年 吉原優

 あなたは、夢を諦めたことがあるだろうか。


 私には、かつて何度も追いかけ、何度も諦め、それでも何度となく、思い出したように、追いかける夢がある。才能はあった。それを叶えられるだけの才能を、おそらく私は持っている。
 けれど一方で、私は凡庸な才能しか持っていなかった。その夢を追いかけ続けられるだけの才能は持っていなかった。私に与えられたのは、人よりも少しだけ突出した、そんな才能だけだった。

 他人よりも、ほんの少しだけ器用に生きてきた自覚がある。環境にも恵まれた。周囲は、私が為したいことすべてに対して決して否とは言わなかったし、私も、周囲から否と言われるようなことをしたがる人間ではなかった。
 けれど一方で、私はとても凡庸に生きていた。周囲から必要以上に嫌われることも好かれることもなく、なにか新しいことに挑戦していくようなバイタリティを持つわけでもなく、ただただ平穏に、生きていた。


 つまらない。


 これまでの自分の人生を振り返って浮かぶのは、そんな陳腐な感想だけだ。自分自身の凡庸さに嫌気がさすような、そんな感想しか浮かんでこない。

 昔、私は凡庸がとても嫌いだった。他人よりも突出しているように感じる自分が好きだったし、他人よりも器用に生きているような自分が好きだった。凡庸な人間は見下した。凡庸にしか生きられない人間を哀れだとさえ思っていた。でも、本当は知っていた。そんな自分が一番凡庸で、哀れだと。

 人とは違うことを為してみたい。そんな風に思うようになったのは、ちょうどそんな自分の凡庸さを自覚し始めた頃だ。夢を持った。自分を凡庸ではなくす、そんなちょっとした才能を自覚し始めた頃だった。

 最初は、順調だった。その世界では年齢も人生も関係なく、つくり上げられた「モノ」だけが評価される。私も、評価された。その広い世界のひとつを構成し得るだろうパーツとして、評価された。
 けれど私は、その評価についていけなくなった。「モノ」をつくり出す悦楽と、その「モノ」に対する過剰な自分自身の期待。そして、それが裏切られた時の、自分自身に対する喪失感。感情が真っ二つに引き裂かれるようだった。私は逃げるようにして、迫ってきた現実を言い訳にして、その世界から遠ざかった。

 あれから、もう4年にもなるだろうか。実は何度か、あの世界に戻ろうと思ったことがある。あの悦楽をもう一度味合うために。凡庸さを取り戻しつつある自分を、諌めるために。
 けれど、あの頃のようにもう一度、指先が軽やかな動きを見せることはなかった。私の指先は、今の自分に馴染んでしまっていた。緻密に計算された機械的な文章をつくり出す、その独創性のない指先の動きは思ったよりも快適で、あっという間に私を侵食していたらしかった。

 後悔しているか、と問われれば、私は決して否とは答えないだろう。この場所で失ったものは多く、得たものはきっと、数えるほどしかない。
 けれど、4年間で得た数少ないものたちは、計り知れないほど大きな存在だった。私の中に大きな爪痕を残すように、少しずつ、少しずつ、範囲を広げて私を凡庸な人間にしようとしている。

 それなのに、かつて感じていた飢餓感は、ない。あるのは微温湯のような幸福感だけ。今の私はそんな状態だ。かつて嫌っていた凡庸に馴らされ始めた。きっと飼い馴らされる日も決して遠くはないだろう。
 それでも、なんたることか。決して今の私は不幸ではないのである。なぜだろう、と考えてみると、ちょっと意外なことが分かった。私はいつの間にか、「ただの」凡庸ではなくなっていたらしい。

 向こう側の、凡庸な私が嘲笑う。お前の価値は、どこにある?
 こちら側の、凡庸な私が微笑む。私の価値は、ここにある。

 夢を諦めてみた。それでも諦め悪く、まだ私の中にその夢は残っている。
 人生は短いけれど、まだ終わらなそうだから。もう少し、今度は私を凡庸ではなくす人の元で、夢と付き合ってくのもありかもしれないと、そう思う、この頃なのである。