義理と人情とチョコレート   志田 陽一朗(政経1年)

「義理」という言葉を初めて知ったのは、「義理チョコ」という言葉を聞いたときであったと記憶している。当時、東京都の北区王子に住んでいた記憶があるから、おそらく小学校の2年生か3年生だったのだろう。

 

 当時の私には、「義理チョコ」は「ギリチョコ」としか聞こえなかった。最初は「ミルクチョコ」や「ビターチョコ」の仲間だと思い、「ギリ」という名の甘いものを探して百科事典をめくった(当然、そんなものはなかった)。どうも違うな、と思い友達に聞いてみたところ、どうやら「ギリ」の反対は「ホンメイ」というものらしく、「ギリ」より「ホンメイ」の方が価値が高い、という事だった。

 

ホンメイ」と口に出すときの、彼女(女の子だった)の照れくさそうな顔が浮かぶようである。本当にそんな顔をしていたかどうか確認する手段はない。

 

 

 しばらくしてバレンタインデーというイベントの何たるかを知った私は、頭の中に「義理=本命の下位互換」という思考回路をしっかりと構築した。以来私は、女の子からチョコをもらうたびに、「これは義理だろうか、本命だろうか」と、トレーディングカードのレア度を推し量るかのように邪推するようになった。「恋」という言葉を知る前であった。

 

 母親同士がママ友であるというだけで私(と弟)に手作りチョコを渡す羽目になった近所の女の子が、「はい、義理チョコ配るね~」と言った時の憮然とした顔が目に浮かぶようである。これはれっきとした事実である。私の目に狂いはない。

 

 

 そうこうしているうちに、私は中学生になった。私は社会の先生が好きであった。腹黒いトム=ハンクスみたいな雰囲気のおじさんで、いつも冗談ばかり言っていた。優秀な私といつも比べてイジられ、弟は閉口したようである。

 

 歴史の時間、その先生が私を指して言った。

「なぜ赤穂浪士は吉良邸に討ち入ったかわかるかい?」

「そりゃ先生、主君の敵討ちでしょう。」

「違うなぁ。志田くん、『忠臣蔵』は義理と人情の物語だよ」

「ニンジョウ?『人情チョコ』ってのもあるんですか?」

 

クラスメイトはどっと笑ったが、誰もニンジョウなるものについては教えてくれなかった。

ムキになった私は、以来現在に至るまで、「義理」と「人情」を辞書で引いていない。

 

 

 さらに時は流れ、2019年の2月14日。日本中でチョコが乱れ飛ぶ中、私はバイトに精を出していた。

 

 いつもは男女比が5:5くらいの職場なのだが、この日に限っては男性しかいなかった。女性陣全員リア充説がまことしやかにささやかれる中、私はある一つの確信を抱いていた。

 

「なるほど、これは女性陣への配慮だな」と。

 

 

 近頃は「チョコハラ」なる言葉があるそうである。「チョコレートハラスメント」の略だ。聞いただけで何となくわかるというものだが、要は「『義理チョコ文化』を押し付けるな」ということである。この「チョコハラ」特集を朝のニュースで見かけていたので、これは女性陣がリアルの都合で今日を空けたのではなく、シフトを組む側が配慮したのだなと思い当たったのだ。随分失礼なことを言っているようだが。

 

 

 しかし思うのだが、その「義理チョコ」は本当に「義理チョコ」なのだろうか?

 

私の母は毎年「チャーリーとチョコレート工場」に出てくる「ウォンカ・バー」をくれる(ありがとう!)。これは「何チョコ」かと昔友人と議論したところ、「義理チョコ」だ、という結論に達した。モテない私を不憫に思い、家族としての義理の念からせめてカウンターを回そうという意図でチョコをあげているのだろうということだ。私は冷たい涙を流しながら納得した。

 

では、職場や学校で文字通り撒かれる「義理チョコ」は、いったい何なのだろうか。まさか討入参加者への粗品ではあるまい。本命チョコだけが送られるコミュニティは殺伐としてかなわんから、もう少し予算を増やして他の男子にもチョコを恵んでやろう、これが「義理チョコ」の発生源ではないのか。そこに、「いや、あの人に渡すならこの人にも渡すのが職場仲間としての義理ってもんだろう」という取り越し苦労的な「義理」を加えるから、「バレンタインデーは女性にとって負担である」という、チョコレート業者真っ青な世論が形成されるのだろう。ここに、「(義理)チョコ」が誕生する。

さらに、「仲間外れが出るのはかわいそうだ」という何とも日本的な「人情」が加わり、ただのチョコレートであったものは「(義理)・人情チョコ」という、文系を殺すようなスウィーツへと変貌する。

 

しかし安心してほしい。よくよく考えれば、クラスや職場の男女は義兄弟の契りを交わしたわけでも、運命共同体としての戦友でもない。中学の社会の先生(誹謗中傷な気もするのであだ名の連呼は避ける)が言っていたところの、「忠臣蔵」的義理はここには存在しないのである。

さらに言えば、「チョコがもらえない人はかわいそう」という発想は、冷静に見れば憐憫よりも軽蔑を多く含んでいる。要は「義理」も「人情」も虚構なのだ。

そうすると、「(義理)・人情チョコ」の係数は虚数ωの3乗、つまり1。

したがって、「義理チョコ」に仕立て上げられた純真無垢なチョコレートは、巡り廻ってただのチョコレートになる。

Q.E.D. 

 

 

と、ここまで書いてきた私が今年もらったチョコレートの数は、誠めでたき0である。

 

私はどこに討ち入ればいいのだろうか。