『他者からの承認』 政治経済学部1年 小林圭

現在、世界には約70億の人がいる。日本にも約1億2,500万の人がいる。これだけ多くの人がいて自分の存在をどうとらえるべきか。果たして私たちは掛け替えのない人間として誰かに承認される存在なのか。自分自身が他者から承認されているか以前に、私たちは何人を承認しているのか。この世の人を何人知っているのか。
私の場合は小学生の頃までに知り合った人が約150人、中学・高校生の頃に約600人、大学に入学してから100人弱で約850人ほどだろう。これに知っている有名人の数を足して千数百人ほどになる。いつも通学時に同じ電車に乗る「顔見知り」の人も存在するがそれだけでその人のことを承認しているとは言い難い。つまり私はこの世界で千数百人ほどしかその存在を承認していないのだ。この程度の人数は新宿や池袋を1日歩いただけで擦れ違う人数にも満たないだろう。約20年生きていたとしても己の知る世界のなんと狭いことか。改めて数え上げてみると愕然とする。
それでは私のことを知っている人間がどのくらいいるのか。仮に私の知らない人が私のことを知っていたとしても1,000人もいないだろう。これらの数が他人から比べて多いのか少ないのかは分からない。しかし20年程度しか生きていない学生に数千人の知り合いがいる例の方が珍しいだろう。私は日本人の約0.0008%にしか存在を知られていないのである。確かにここに存在する私という存在を大半の人は知らないのである。そして私が知る人も同じ程度の割合しか存在しない。これを世界で見てみるとその割合はさらに減少する。

この文章を読んでいる方にも自分の知っている人の数、自分を知っている人の数を数えてみてほしい。私たちの存在は知られていないのである。
この事実を受け止めた時に人はどういう行動に出るだろうか。とにかく自分自身を知ってほしい、自分はここに存在するのだと世界に向けて発信のするのであろうか。それともあまりにもちっぽけな自分に絶望するのであろうか。はたまた何事も感じないのであろうか。あるいは自分は知られていなかったとしても知っている人の間では重要な存在であるとして自分の存在に価値を見出すのか。

私が疑問を抱くのはこの少数ではあるが他者から承認され重要な存在であると自身に価値を置く人である。果たしてその人は家庭で、学校で、職場で、社会で、掛け替えのない存在であるのか。家庭では親として、子として、掛け替えのない存在であるかもしれない。しかし、学校、職場、社会でははたしてそういえるのだろうか。大学において大教室での授業は数百人の学生がいる。自分が知っている数はせいぜい10人弱、あとはその他大勢でひとくくりにするだけである。つまりその存在は他の人で置き換え可能なのである。職場でも同じである。同じ部署では知られていても他の部署の人からしてみれば、置き換え可能な「○○部の人」という扱いでしかない。社会においては尚更である。

それでは私たちはどこに自分の存在の拠り所を見いだせるのか。他者に見いだせない以上、自身の内側に見出すべきではないか。他者に存在を承認されなくても確かに私はココにいる。ただそのことだけで自分の存在を確かなものとして認めることはできる。あとはその地盤となる確かなものを持つことが必要になる。その地盤をいかにつくるかということが人生における課題となる。