「他者への想像力」

法学部2年 津田遼

誰かのために何かをするとき、誰かを守るとき、最も大切なことはなんだろうか?

何を、いつ、どこで、どのように、といった手段が、その成功の是非を大いに左右するが、それらの根本にあるもの、それは言うまでもなく「他者への想像力」だ。いかに善意による行為であっても、「他者への想像力」を欠いた行動は、自己満足に終わってしまうだけでなく、むしろ何もしないよりも相手を苦しめてしまう危険性を大いにはらんでいる。
 そういったことから、私は自分が接する相手への想像力を働かせ、自分の行為がいかなる結果をもたらすかということを、常に自問自答しながら日々行動するよう心がけている。しかし、心がけてはいるものの、なかなかそれが思うようにできずに、もどかしい思いをすることが多々ある。
本コラムでは、2ヶ月ほど前10日間の入院生活で経験した2つの出来事を通し、人のために行動する上で最も根本となる「他者への想像力」を働かせることの難しさ・重要性、そして、いかにすればそれを働かせることができるのか、ということについて、私の見解を述べていきたい。



彼女への失望:
 私は今年の5月の初めに、自然気胸という肺がしぼんでしまう病気にかかり、手術をするため10日間の入院をすることになった。自然気胸の手術は1時間弱で終了するし、成功すれば再発率は3−7%なので、癌や心臓病などと比べればたいした病気ではない。そして、私が入院した病院は世界でも有数の気胸手術の技術が高い病院であることから、手術に対する心配は皆無までとは行かずともほとんどなかったといっていい。むしろ、入院する前までは、10日間も朝から晩まで思う存分本が読め、考え事ができる、またとない素晴らしい機会だと考えていた。
 しかし、入院当日、その素晴らしい構想は崩れ落ちた。肺がしぼんでいるので十分酸素が脳に回らないせいか、本を読んでも内容があまり入ってこない。考えても、まともな考えは浮かんでこない。外界からは病院の壁と緑色のカーテンで遮断され、新鮮な空気すら吸えない。話す相手もいない。私は一人旅が大好きだし、昼食も好んで一人で食べる。そんな自分が、生まれて初めて、押しつぶされるような孤独感を感じた。
 当時、付き合い始めてから1ヶ月の彼女がいたが、入院直後、私は誰よりも彼女に会いたかったし、入院翌日は日曜日で休日だったので、来てくれるのは「彼女として」当然だと思っていた。好きな人が手術をするため入院しているのだから、遊びなどは一切キャンセルして、お見舞いに来てくれるのが当然であると考えていた。
 しかし、翌日の朝に来たメールは、「これからディズニーランドに行ってきます♪」。直後の反応は、ため息と失望感しかなかった。そうですかそうですか、ディズニーランドとはさぞ愉快ですねえ、といった感じである。
 そういった気持ちで、数時間が経過した。しかし、ふと、彼女を責めるのはおかしいのではないかという考えが浮かんだ。彼女が私のことをどれくらい大切な存在と考えていたかは、当時、短い交際期間からはなんとも知る余地はなかったが、仮に私を極めて大切な存在だと想っていてくれたとしても、あのような態度は仕方がなかったのではないか、と思ったからである。というのも、彼女は健康そのものであり、生まれてこの方、入院というものを一度も経験していない。ゆえに、手術をするとはいえ、命に全く別状はなく、前日まで歩いて会話できていた人を、わざわざ前々から約束していたディズニーランドを断ってまでしてお見舞いに行くことはないと考えるのも十分ありえるだろう。私の心情を想像できなくて当然である。
 そして、これは私に関しても十分言えることだった。私は小学4年生のとき、左ひじを骨折し、1週間ほど入院した。入院したのがアメリカへ引っ越して間もなかったことから病院で先生や看護師の方々と言語はほとんど通じず、今回の入院に勝る孤独感を感じていたに違いない。しかし、それが自らの経験であったのにもかかわらず、今、当時の気持ちを全く覚えていない自分がいるのである。
 また、生涯付き合っていくであろう、とても親しい先輩が心臓病の手術のために入院をしたこともかつてあった。その手術は今回私が受けたような簡単なものではなく、場合によっては命にかかわるほど深刻なものであった。しかし、それにもかかわらず、手術後に見舞いに行こうという発想すら脳裏をかすめることはなかったのである。

 そして、もし、今回の入院がなければ、私自身、「大切な人、親しい人と会いたい」という入院患者の押しつぶされるような孤独感を、未だ理解することができていなかっただろう。



博多弁の女の子への誤解:
 入院して数日が経過したある日、ベッドで横になっていると外から若い女性の声が聞こえた。病室には扉がなかったので、カーテンの隙間から外をのぞいてみると、廊下にあるソファーに小柄な女の子が一人、ケータイで電話をかけていた。上述したとおり、頭がボーっとして読書や考え事はあまりできなかったので、なんとなく彼女の話を聞いていた。話によれば、彼女は22歳で、翌日が誕生日だという。また、彼女がつけている装置から、私と同じ自然気胸であることがわかった。通話は1時間弱だった。
翌日も同じ時間に同じ場所で、彼女は電話をかけていた。二日連続であったので、さすがにうるさいなと思い、多少のイラつきを感じた。「私もその他の入院患者も孤独に耐えてがんばっているのだから、あなたも少しは忍耐したらどうか。仮にも22歳で自分よりも年上なのだから、もっと大人らしい行動をとったらどうなのだ」、と思った。
しかし、彼女の話を聞いているうちに、大人らしい行動がとれていないのはむしろ自分であったことに気づいた。彼女の住まいは博多であり、入院するために2ヶ月前に上京。しかも、毎日39度近い高熱と戦っているという。一方、当時私は入院して数日しかたっていなかったし、熱もあっても微熱で37度前後である。にもかかわらず、私は彼女の孤独感、苦痛を自分と同じモノサシではかり、彼女はなんて根性がなく大人気ないのだと決め付けていたのだ。
数日前、「他者への想像力」の重要性を、身をもって痛感したはずであるのに。



いかにすれば「他者への想像力」を働かせることができるようになるのか?:
 いかにすれば他者への無理解という壁を乗り越え、「他者への想像力」を働かせることができるようになるのだろうか。
 これは、「よし、今から想像しよう」といって目を閉じて頑張れば想像できるものではない。様々な苦難に苦しむ人々の現状を統計やアンケートによって客観的にまとめた文献を読んだり、そういった現状をドラマチックに編集したドキュメンタリーを観たりすることは、想像する「助け」になるかもしれないが、それだけでは不十分である。

 ではどうすればいいのか。
 まず、第一にすべきことは、実際に自分が助ける・守る対象となる「他者」と接することである。「他者」と出会い、時間をともにし、彼らの気持ちを理解しようと努力することである。そうすることで、単なる自分の妄想としての他者ではなく、実存する「他者」へ想像力を働かせることが可能となる。
 そして、その過程を繰り返し行っていくことによって、実際に出会った「他者」への想像力のみならず、未だ出会ったことのない「他者」への想像力というものも、おのずと養われていくのではないかと思う。

 今の私の「他者への想像力」はまだまだ発展途上である。それを向上させるべく、今後も全力で努力していきたい。