『「自由だが冷たい(何もわからない)社会」の中で』 社会科学部2年 平野真琴

昨年の12月に、脚本家・市川森一が亡くなった。大河ドラマまで手掛けた著名な脚本家であったが、個人的には『ウルトラマンエース』が印象深い。『エース』は1972年に放送が開始され、市川が初期のメインライターを務めた作品である。『エース』では男女合体変身という特撮史上異例の設定を持ち込んだ。『エース』の敵は異次元人・ヤプールという、一説には人間の心の闇を象徴したものであるが、そのような存在は通常の人間や兵器では倒すことができない。ヤプールを倒すことができるのは、人間が未だ克服することができていない性差を超越した存在でなければならず、だからこそ男女合体によって登場するエースが要請されたのである。アダムとイヴを想起させるこの設定は、キリスト教徒であった市川らしい。
昭和のウルトラマンシリーズが社会的メッセージを内包していたことは今や有名である。宇宙開発競争の犠牲者・ジャミラが人類に復讐する「故郷は地球」、環境破壊に警鐘を鳴らした「果てしなき逆襲」、際限なく兵器開発を行う人類に不信感を抱きながらもウルトラセブンが戦う「超兵器R1号」、沖縄と本土の関係を思わせる「ノンマルトの死者」、差別問題が垣間見える「怪獣使いと少年」などが代表であろう。当時は高度経済成長期の真っただ中であり、希望にあふれた時代であった。そんな中で、ウルトラマンシリーズはチャーチルの言うところの「成長は全ての矛盾を覆い隠す」の覆い隠された「矛盾」を世に問い続けたのである。そもそも日本の特撮の祖である『ゴジラ』が水爆実験を批判して作られたものであり、その『ゴジラ』をこの世に送り出した円谷英二円谷プロダクションを立ち上げて『ウルトラQ』や『ウルトラマン』をブラウン管に流した。特撮というものに社会批評という土壌が備わっていたことは間違いない。
時は移って90年代の日本社会は、バブル崩壊により経済が停滞し「矛盾」だらけになった社会である。そして社会主義という「外側から」の敵よりも「内側から」生じる脅威が人々を脅かすようになった社会である。テロまがいの事件が人々を恐怖に陥れ、前代未聞の少年犯罪が世間を震撼させた。宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』から言葉を借りれば、「自由だが冷たい(わかりにくい)社会」である。そんな時代の中、ゴジラは殺された。それも、かつて自分を殺した水爆を凌ぐ兵器の亡霊によって。ゴジラという、戦争や「外側から」の脅威の象徴はもはや時代遅れである、と言わんばかりであった。1995年の出来事である。ゴジラと入れ替わるように1996年に登場した『ウルトラマンティガ』では、人間の心の闇や「内側から」の脅威を表現し、ティガと衝突させた。そして人々が「光」を信じることによって闇を打ち砕いていく展開が用意されていた。経済成長という希望にあふれた時代の「矛盾」を糾弾してきた特撮は、「矛盾」だらけの社会においてはそれを映し出し、乗り越えることを謳ったのである。
ゼロ年代は「自由だが冷たい(何もわからない)社会」と表現できよう。構造改革や世界的な経済危機、緊迫する国際情勢などが取り巻く状況においては、個人や国家のみならず、世界さえも明日どうなるか確信をもって言い表すことができない。
ゼロ年代の特筆すべき特撮は、2001年の『ウルトラマンコスモス』を第一作品目とする21世紀ウルトラマンシリーズと、2000年の『仮面ライダークウガ』以降現在に至るまで続いている平成仮面ライダーシリーズである。
21世紀ウルトラマンシリーズを論じる上では、『ウルトラマンネクサス』を外すことはできない。2004年に放送が開始された『ネクサス』は、政府の隠蔽工作や無感情に人間を襲って食す宇宙生物などといったシリアスな設定の中で、次々と明らかになる現実に翻弄されながらもそれらを克服し、最後に自分がウルトラマンの力を手にすることとなる主人公の姿を描いている。上述のような設定は、我々を取り巻く現実も裏日常と並行して進行していると感じさせる。現実感を伴った設定が登場人物への感情移入を容易にさせ、度重なる絶望とそれを乗り越えていく様を効果的に「体験」させることに成功しているのだ。
平成仮面ライダーシリーズも、時代を映しているが、必ずしも乗り越えるところまでは描かないというシビアさも持ち合わせている。2002年の『仮面ライダー龍騎』は13人ものライダーによるバトルロワイヤルが描かれ、最後の一人が願いを叶えられるという目的のために、それぞれが自己の願望を果たすべく戦った。バトルロワイヤルという一括りの環境の中で、触れ合うことができる人は物理的にいるのに、お互い決して分かり合うことはできない。翌年の『仮面ライダー555』でも、登場人物たちは一つ屋根の下に暮らしながら、かつて寝食を共にしていながら、分かり合えず心はバラバラのまま死んでいく。最終回で主人公・巧は、人類を救うことと引き換えに、近い将来における自分の死という運命を受け入れざるを得なくなる。巧の「世界中の洗濯物が真っ白になるみたいに、みんなが、幸せになりますように…」という言葉が虚しく響く。「みんなが、幸せ」になれるような方法などもはや存在しない時代にあるという現実を視聴者に突き付け、物語は幕を閉じる。
「自由だが冷たい(何もわからない)社会」から抜け出せる気配が全くない時代だからこそ、シリアスで後味の悪い説教めいた特撮は要請されていないのかもしれない。しかしむしろこのような時代だからこそ、まだ特撮にはできることがあるはずだ。この先、我々を取り巻く社会環境はさらに悪くなるかもしれない。「失われた30年」という言葉が普通に使われるような時代が来るかもしれない。だがそんな時代になっても、何かを訴えかける特撮がテレビ画面を賑わせていれば、「何もわからな」くても乗り越えられるような気がするのである。

(敬称略)