「我と汝」 法学部二年 野村宇宙

 去る2016年7月10日、第24回参議院議員選挙が行われた。今回の選挙では、18歳選挙権が認められて以来初の選挙となることや、与党を始めとする改憲勢力連合野党という対立図式になったこともあり、国民の関心を大きく引く選挙となった。しかし、今回の選挙に関して「18歳選挙権と若者の投票率」、「勝つのは改憲派か?護憲派か?」といった論点について分析し、論じる記事が多い中で、そうした論点とは少々異なる点に関して論ずる記事もあった。それは、「支持政党なし」という政党が、今回の選挙で一定の支持を得たことに関してである。
「支持政党なし」は比例区で2人の候補を擁立、選挙区でも数人の候補を擁立し、今回の選挙に臨んだ。結果、朝日新聞出口調査では、共産党、おおさか維新の会に次いで、比例区に投票した無党派層の10%が「支持政党なし」に投票したという。また、結果として全員落選してしまったものの、総得票数では正規の政党である「日本のこころを大切にする党」と「新党改革」の間に滑り込む形となった。つまり、「支持政党なし」という反語的な名前を持ち、一見奇をてらっただけのように見えるこの政党は、思いの外善戦したと言えるのだ。どうしてこのような善戦が可能となったのだろうか。
 この問いに対して一つの答えを提示している、ある興味深い記事がある。それは、恵泉女学園大学教授の武田徹による、『「支持政党なし」善戦をもたらした“徹底的に孤立した個人”』(http://www.huffingtonpost.jp/tooru-takeda/election_japan_b_10953204.html)という記事だ。武田は記事の中で、『「支持政党なし」に投票するような人たちは、政党に投票し、数の力で自分の意志が政治に反映してゆくことを望み、そのためには小異を捨てて大同につける人たちとは異なる。(中略)束ねられることを嫌い、公共の利益実現のためであれ自分を曲げることを好まない、いわば徹底的に孤立した個人主義者だ。』と分析している。
 今の日本では、政党政治による代議制民主主義が一種の常識となっている一方で、政党に忌避感を抱き、特定の政党支持を望まない層も一定数存在する。「支持政党なし」はそうした層の不満を吸収し、その心情を反語的に顕示する一つのチャンスであったのかもしれない。「支持政党なし」に投票し、特定の政党の支持を徹底して嫌うその姿勢からは「人々と群れることを嫌い、そこから少しでも遠くあろうと孤立するアトム化した個人」という人間像が浮かび上がってくると、そう武田は分析する。
「個人のアトム化」、「多様な人間が住む世界からの疎外」、「大衆の中の孤独」。多くの現代哲学者は、個人が集団や世界からますます孤立してきている現状を問題視し、人間と人間のあるべき関係を回復する手立てを提示しようと試みてきた。その一人に、マルティン=ブーバーという哲学者がいる。彼は、20世紀に活躍したオーストリア出身のユダヤ宗教哲学者だ。その主著に、『我と汝』という著書がある。そこにおいて彼は、自己と他者の関係についての思索を試みている。
彼は著書の中で、現代社会に蔓延する<我−それ>関係(Ich-Es)を批判している。<我−それ>関係とは、端的に言えば「自己が他者を物として捉えている関係性」のことである。その上で彼は、<我−汝>関係(Ich-Du)を理想としている。この関係においては、先程の<我−それ>関係とは異なり、「自己が他者を人間として捉えている関係性」にある。すなわち後者の<我−汝>関係においては、他者を利用・手段の対象としての「物」ではなく、目的たる「人間」として捉えている、ということになる。また、<我−それ>関係における自己(ブーバーはこれを我在と呼んでいる)は、他者を含む一切を利用の対象として手段化しているため、自己たる我在すらもEs化された非人間になってしまっている。一方で、<我−汝>関係における自己たる我は、人格として覚知されており、主体性として意識されている。
 人間は関係性の網の中に存在し続ける生き物であり、どこまで行っても他者存在からは逃れられない。そこにおける人々の自己−他者の関係性を見てみると、<我−それ>関係に陥っている人も存在すれば、ブーバーが理想とした<我−汝>関係を志向し、それに近づいている人も存在する。ところで、周囲の他者と<我−汝>関係に近づくことはなかなか難しい。彼の理想とする<我−汝>関係において、自己は他者を全一性において覚知しており、かつ、自己と他者の間には目的・欲求・予知・概念的理解などの媒介物は存在しない。つまり、我と汝の邂逅において、我は汝の在り方をそのありのままに全て受け止め、かつ、我は汝に対して要求や目的といったものを一切有しない状態で直接的に接しているのだ。さすがに、現実社会においてそこまで<我−汝>関係を貫徹することは到底不可能だが、それでも<我−それ>関係からの脱却を試み、<我−汝>関係を志向すること自体は我々にも可能である。ブーバーは<我−汝>関係の志向を他者との邂逅、すなわち「対話」に求めている。つまり、対話こそが他者を物ではなく、他ならぬ人間として強く意識させ、他者の特異性、アイデンティティ(”who“)をはっきり意識させるということだろう。
ここにおいて、<我−汝>関係においては2つの大きなメリットが存在する。1つ目は、人格としての他者と関わること自体から、新しさ・驚き・安心などの肯定的な体験が得られるという点。そして2つ目は、自己をそれ自体目的として認識できるようになることで、「人は何のために生きるのか」という答えのない問いから生じる抑鬱を回避することができるという点である。すなわち、「私は生きるために生きる」というある種仏教的な悟りを得、自己の生を絶対的に肯定することが可能となるのだ。
そう考えてみると、「人と積極的に関わりなさい」、「友だちとどんどんおしゃべりしたり、一緒に遊びなさい」という幼少期に教師や親からよく言われたあの台詞はあながち間違っていないとも言える。ブーバー哲学の興味深いところは、彼の哲学が他の哲学者に比べると思索の程度が甘かったり、論理的には詰め切れていなかったりする一方で、その思考の結果が我々の実感に優れて近いものになっているところにある。それは、彼の哲学が単なる観念の遊戯にとどまらず、我々の実生活において活用していくことのできる、「生きた哲学」であることの他ならぬ証左かもしれない。それは例えば、冒頭において「支持政党なし」を支持していたアトム化する個人に対して、熟議民主主義の魅力を語り、対話を試みることに活用できたりするのかもしれない。あるいは例えば、ブーバーがイスラエルとアラブの和解に生涯を捧げ、両民族から等しく尊敬されたように、対立する二者の対話と和解に活用できるのかもしれない。最後に、それ(Es)のみと生きることを拒み、どこまでも汝(Du)との対話を志向したマルティン=ブーバーの格言をここに記し、筆を置く。

――それと共にのみ生きる人間は人間ではない――
――各々の汝との接触を通して永遠の生命の息吹が我々に触れる――