「潜在熱源」

政治経済学部一年 佐古田継太


先日、内定先の企業とメールのやりとりをしている先輩を何気なく見ていたら、返信メールの件名に「Re:」をそのまま残して送信しているのに気づいた。返信の際、自動的に表示される「Re:」を「Reply」や「Respond」と勘違いしている人は案外多い。
 今となっては一般常識かもしれないが、「Re:」は英語でちゃんと意味のある単語で、「〜について」とか「〜の件」という意味になる。だから、「Re:内定者レポートについて」という件名はちょっぴりおかしい。ちなみに、「Re:」の語源はラテン語である。
「re」を辞書で引くと、複数の意味が現れる。①ド・レ・ミのレ(re)、②↑上記の(Re:)、そして③「あとに」とか「ふたたび」を意味する接頭辞としての(re‐)だ。

昨今はとやかく「ふたたび」を意識させる時代に思えてくる。経済のグローバル化は、意識のグローバル化を可能にした情報技術の急速な発展に伴い、他者の異質性を知らしめることで、グローバル資本主義という<真理がない!>として経験される社会空間を世界規模で生んだ。このような時代においては、真理の体系に対して趣味のような関わり方は容易にできるけれども、真理に対して真理として関わることは困難になっている。今日の世界で、伝統保守への回帰や原理主義が支持を集めるのは、それらの絆が強いからではなく、むしろそれらが無に近いものになっているからに他ならない。
グローバル資本主義がわれわれに与えた<認知地図>は、かつての真理のような大義名分への自己犠牲的な献身などではなく、曖昧で特定できないもの、あらゆる形態で見受けられる<楽しめ!>というものである。これはどういうことか。貨幣が農業を「生活を直接支えるもの」から「消費生活における交換価値を生み出すもの」へと変化させたように、多くのものが貨幣という一元化された規準で測られ、経済の相互依存を土台にしたネット・ワークが構築されつつある中では、宗教などに見られる「意味を担わされている」という感情は意味消失し、衝動や欲求に基づいた<楽しめ!>という「指令」が極大化されるということである。
近代以降、われわれは様々なものを商品化してきた。労働、コミュニケーション、土地、そして貨幣までも。K.ポランニーはそれらを、本来商品たりえないものをむりやり商品として対象化した「擬制商品」と呼んだ。なぜなら、労働やコミュニケーションの背後には人間があり、土地の背後には自然があり、貨幣の背後には、秩序に対する根本的な「信」の感覚、言い換えればある種の聖性の感覚があるからである。これらは、いわばグローバル資本主義の基盤を構成する諸要素でもある。
われわれが現在直面しているのは、これら「擬制商品」化された要素が超越化される過程とも考えることができる。A.トフラーや山下範久も指摘するように、超越化の前提には、人間、自然、聖性のそれぞれの要素を再定義する激しい交渉の過程があり、それはすでに始まっている。デザイナー・ベビーやクローン人間の是非、遺伝子組み換え作物の是非、バイオメトリクスの導入による人間の動物的管理、リタリンプロザックのような向精神薬の発達による精神状態の人工的調整の可能性、アンチ・エイジング技術の発達による人間存在と時間との関係の変化などなど、その交渉の前提は極めて多様である。
このような時代だからこそ、「ふたたび」が重要になってくる。万人が疑うことなしに信ずる唯一絶対の真理はない。しかも、われわれの世界を規定するグローバル資本主義の諸要素が劇的な変容を遂げている。だからこそ、「ふたたび」真理を認識することが心の平穏を見出したいと願う多くの人に求められている。留意すべきは、このことが新たな紛争の火種を生み出しているということだ。
この<真理がない!>混沌とした時代に、文明間における共約不可能性の壁が打ち立てられようとしている。物理的な現実世界における自己と他者を隔てる格差の拡大は、ルサンチマンの鬱積をもたらし、「テロリズム」という過度な暴力の連鎖として問題化している。人が人を憎み、憎悪し殺しあう暴力の連鎖が、今日の世界における多様な価値観の共存を危機に陥れていること、また、それが多くの場合、社会的政治的にも恵まれない弱者を犠牲にしていることが、中東地域、とりわけイラクやアフガンにおいて深刻化している。対テロ戦争へ邁進するアメリカ合衆国は、「アメリカvsテロリストとしてのムスリム」という構図を創出し、―<真理がない!>時代にある種の<認知地図>を作り上げるという意味で―さきのルサンチマンの炎に油を注いでいるのだ。
「わかり合うための前提をいかにしてわかり合うか」、共存のための古くて新しい課題がここでも顔をのぞかせる。