「偏見」商学部三年 清水寛之


 先月、私は中国を旅行した。生まれ育ちは日本、海外に行ったのは今回を含め6,7回程度である。大学生になってからの海外旅行は初めてということもあり、多少なりとも見識を拡げられればと思った。旅行先の中国という国は、3千年以上の歴史を有する中華文明として長らく東アジア世界の中心として君臨し続けた。ところが、国共内戦、革命、改革開放による急速な経済発展等、世界一の人口を有するこの大国は列強による侵略に端を発して以来、急激な社会の変化を経験してきた国でもある。私は本稿で、異文化(安易にこの言葉を使いたくないが、便宜上、否、あえて使用する)を日本人の目を通して考察した所見と、それによる多少の認識の変化について述べたいと思う。
 早々、少し横道にずれるが、ここ最近テレビを観ていると、日本文化の伝統や、海外で活躍する日本人を扱う番組をよく見かける。日本人による日本観、外国人に鏡として映った日本観、通底してこの国の根底を支える思想を発見しようと努める意図がありそうに思われる。私はこれを詳しく知った訳ではないが、グローバル化の中で我らの枠組みを固持したいという世界的な傾向の一例かと勝手に解釈している。これについて良し悪しを述べるつもりはない。これは、我々の「現実」に過ぎない。表裏とも言えるもう一つの側面も存在する。近隣国に対する親近感の低下である。中国、韓国へ親近感を抱く日本人の割合は年々低下し、中国に関しては1975年以来最悪の割合だと言う。逆もまたしかりだ。まとめると、昨今の特徴として、グローバル化によって国民国家の枠組みは寧ろ強く意識されるようになった。
 話を戻そう。中国大陸を歩き続け、私は確かに感じた。人々の間には日本のメディアで散見されるような強烈な反日感情はない、と。しかし、同時に感じたこともある。自分はやはり異文化の訪問者なのだということ。それは個人同士のかかわり合いがいかに友好であったとしても、である。善悪抜きに、常に日本人との違いを意識し続けた。日本人観があり、それが異文化を浮きぼらせた。その逆も然りである。結果として、再帰的に日本人を把握しようと努めていた。勿論それが目的であったからというのもあるが、そうでなくとも結果は大体同じであったと思う。もう一つ話を付言すると、急速な変化を繰り返した中国国内には、自生的と言えるような伝統と、革新的なイデオロギーとが混在していた。それを彼らがどう捉えるかは聞けなかったが、外観的にはあまり馴染んでいるようには見受けられなかった。
 この経験は、概して自由主義的であるはずの自分に多少ばかりの認識の変更を迫らせた。異文化の中の自分は、あまりにも違う他者だったのだ。文化の物語が規定する影響は、思っていた以上に大きかった。自由主義(特に、所謂「リベラリズム」)が想定する個人は、原子論的だと言われる。つまり、文化、国境等、あらゆる偶有性を乗り越えた一つの独立した自我を想定しているのだ。それ故、同時に進歩主義的だとも言い表される。私はこれを正しいと確信していたし、例え問題(ex. コミュニタリアンの「負荷なき自我」という批判)があるとしても、原理的にそれを否定する論拠になるとは思っていなかった。否、今や主張が全て転換したという訳ではない。但し、慎重にはなった。少なくとも今の自分は、完全に平坦な視点で全ての他者を見られる訳ではないし、同じ労力ならば知らない誰かよりも良く知った隣人を助ける性向を持つだろう、と自覚した。規範的にはそれを乗り越えたいと思いつつも、実際には自らの埋められた価値の中に甘んじているのだ。そしてもう一つ。これまで培われた認識は、そう簡単に変わりはしない。変化を受け入れるには時間がかかる。また、実感の出来ないものに抵抗感を覚えることは至極自然なのだ。合理的な思考の偉大さと比べればほんの些細なはずの感情は、自分の中で、予想以上に強く主張した。最後に、啓蒙の最中にあってフランス革命に断固として反対したバークの言葉を紹介して本稿の結びとしたい。
  
  御判りのように、私は、この啓蒙の時代にあってなおあえて次のように告 
  白する程に途方もない人間です。即ち、我々は一般に無教育な感情の持ち
  主であって、我々の古い偏見を捨て去るどころかそれを大いに慈しんでい
  ること、また、己が恥の上塗りでしょうが、それを偏見なるが故に慈しん
  でいること、しかもその偏見がより永続したものであり、より公汎に普及
  したものであればある程慈しむこと、等々です。(バーク1978:110-111)

〈参考文献〉
エドマンド・バーク(1978)『フランス革命省察』半澤考麿訳,みすず書房