「矛盾」 社会科学部三年 王威
私は「矛盾」という言葉が大好きだが、同時に大嫌いでもある。
その語源は『韓非子』の、「どんな盾も突き通す矛」と「どんな矛も防ぐ盾」を売っていた商人が、客から「その矛でその盾を突いたらどうなるのか」と問われ、返答できなかったという故事から来たもの。まさに矛盾である。
物事が複雑多様になるにつれ、そこには必ず矛盾が生じる。万物の長であるヒトもその例外ではなく矛盾の集合体である。ヒトの集合体である社会も矛盾だらけの存在であろう。そして、一つの小さな社会である雄弁会でも当然、矛盾を避けられないだろう。
弁論活動を見学しに行った時、アジテーションに感心していたら、途端に激しい野次が飛び交いはじめた。「礼儀を重視する日本人が、何故このような失礼なことをするのだろうか」と驚愕した。雄弁会で気づいた最初の矛盾であった。
雄弁会は百年以上の歴史を持っており、伝統を重んじている面がある。自分は留学生として、当然日本の文化と慣習を尊重するつもりであるが、自分の素直な性格と不勉強のせいで、度々失言や粗相をしてしまう。しかし、心優しい先輩方はいつも、『私にはいいんだけど、他の先輩たちには注意してね』と言ってくださった。私は先輩全員にそう言われた。『では、誰にも注意しなくでもいいのでは?』と困惑した。これもまた矛盾である。
公式行事を行う度、必ず礼儀作法に関するお知らせが来る。そこには先輩に対しての細かい言葉遣いや、座り方、乾杯のしかた、お酌する際のラベルの位置まで細かく記されていた。果たして、平等を重んじ、他人と違うことを恥として感じる日本人は、何故これほど上下関係を重視しているのだろうか、という疑問が浮かび上がた。矛盾である。
自分も当然それらのルールに従うつもりだが、先輩方はそれらに執着する様子がなく、むしろお酌して頂いたこともあった。さぞかし、先輩方もこのような厳しいルールに、面倒くささを感じていたのだろう。では、このような厳しいルールを守り続ける意味はどこにあるか。矛盾である。
社会変革者を志すならば、まず社会のルールを学ばなければならない。しかし、その変革したい現実社会のルールに、いつまでも従順な人が、果たして社会変革者になれるだろうか。矛盾である。
先日のコンパでは、一人の会員を多人数で囲み、その人をひたすら蹴る活動があった。意味がよくわからなかった。当然怪我人を出すほどのものではなく、蹴るというのも形式的なものだった、しかし、知性を根幹とする団体には少々暴力的だった。会員の中で、いじめや暴力を問題意識にする会員も少なくないにも関わらずその活動に、私も含めて参加した。矛盾である!
このような不条理について、同期に文句を言った事がある。そこで返ってきた答えは『伝統だから、仕方がないや』であった。そこから、一つの疑問が浮かび上がった、伝統を破壊しないで、社会変革が可能なのであろうか。矛盾である。
弁論に矛盾は致命的である。弁論を作る作業とは、論理の中の矛盾を解消する作業でもある。しかしながら、弁論を作る雄弁会という組織には多くの矛盾が存在している。矛盾である。
雄弁会員である私達も、矛盾に満ちた存在ばかりである。大阪人と言う誇りを持ちながら、東京都の住民票を手に入れ、都知事選挙に参加し、東京に魂を売った会員もいる。日本古来の伝統と文化を守りたいと称しながら、議論中に外来語を連発する会員もいる。資本主義を信じていると言いながら、共産主義にも賛同して、理念が混乱している会員もいる。矛盾である。
雄弁会員である私は「矛盾」と言う言葉が大好きだ。なぜなら、その複雑なロジックを吟味する事ができるからである。私は「矛盾」と言う言葉が大嫌いだ。なぜなら、矛盾が存在すると他人を説得することが困難になるからである。これもまた矛盾である。
このような、矛盾に満ちた雄弁会も私は大好きである。だから居続けられる。このような雄弁会が大嫌いでもある。だから変革したくなる。
私達は社会変革を志す者である。それは、唯一不変な真理とは変化だからである。これもまた矛盾である。