「である。」 法学部一年 明神青葉

 「である」べきことを「する」ために

「せき・こえ・のどに浅田飴」でお馴染みの永六輔氏が先日、逝去された。作詞家・放送作家など幅広く活動した六輔氏が、ラジオを通して訴え続けたことがある。「米穀配給通帳」廃止と、「鯨尺」使用の許可だ。
米穀配給通帳とは、戦時中配給制度の下、米の配給を受けるために発行されていた通帳である。戦後経済復興とともに配給制度はなくなったわけで、この通帳も当然不要なものとなったのだが、関係法令が改正されず、毎年印刷されては使われないまま年度末に廃棄されていた。リスナーたちは米穀配給通帳をみたこともないし、存在すら知らなかった。しかし、彼の継続的な努力は1981年食糧管理法の改正に伴う発行廃止へと結実した。この通帳の件は、時代にそぐわないものを放置するものとして最たるものであっただろう。
鯨尺」とは、江戸時代から使われていた裁縫用の物差しであり、メートル法の規定で製造が禁止された。度量衡の統一は国家運営に不可欠なものの1つであるから、確かに当たり前のことのように思える。しかし、従来鯨尺を使用していた職人は、それまで培った職人技を奪われることになった。彼らは隠れて鯨尺の使用を続けていた。法整備の過程で現場の職人たちはないがしろにされていたのだ。これをきいた六輔氏は、訴えた。結果1977年、条件付きではあったが鯨尺の使用が認められた。この鯨尺使用禁止は、必要なものを視野狭窄から破壊するものの好例だ。
以上2つの事実はおそらく、何が不要で何が必要なのか、ひいては何が正しく何が正しくないのか、これを考えることを放棄した…思考停止の怠惰によるものである。こうして生まれた「不正」は社会を蝕み、機能不全に追い込んでいく。
怠惰を打ち砕かなければならない。しかしこの怠惰、強いものである。1人や2人の力では到底太刀打ちできない。だからより多くの味方を作ることが必要になる。しかしながら人というものは多少間違っていることであっても、自分に直接の利害がなければ、動くことのリスクを考慮し…ないし、ここにも存在する小さな怠惰によって、そう簡単には動かない。それでは、人を動かすものは何か。それは情熱だ。正義を主張する熱弁なのだ。人に伝えることで、正義は磨かれ、ひとりよがりから脱する。この正義が正義であるということが担保されるのだ。そして、より多くの人に正義が共有されたとき、大いなる怠惰に立ち向かうことができるのである。
 物事を正しからしめるためには、絶え間のない努力が必要である。なぜなら時と共に社会を初めとする組織は変わり、正しいものは変わる。それだけでなく、誰かの思い込みによって正しいものが権利を奪われることもある。必要なのは、正しさ…筋が通っているか、これを常にあらゆるものに問い続ける不断の努力と、不正を見たときにこれを訴える熱弁である。現場を歩き、ラジオに向かった六輔氏のように。