「ヒカリアレ」 政治経済学部二年 南井暉史

天皇陛下生前退位(これはメディアの造語であって正しくは譲位である)がここ最近話題になっている。これに関連して今後の皇室の在り方や天皇陛下の公務の在り方に関する議論も活発になり、今年は天皇という存在そのものに注目が集まった年ともいえる。
そもそも天皇とは、天照大御神の末裔であり、初代の神武天皇から現代に至るまで125代に渡って基本的に男系男子(過去には男系の女帝もいた)で継承されてきた存在である。8世紀初頭に成立した「古事記」には、神代から第33代の推古天皇までの歴史が書かれている。神代は日本の神話であって、歴史的な事実ではないうえ、十数代までの天皇は実在が疑問視されている。
ではなぜこのような歴史が作られたのか。その理由の一つに、天皇による統治の正統性を示すことが考えられる。世界各国の王や皇帝が支配の正統性を示す必要があったのと同じように、日本でもそれが求められたのではないだろうか。古代の日本はアニミズムであり、樹木や岩などに神が宿っていると考えられていた。そんな中でも、お天道様などと呼ばれる太陽の神は別格であった。だから日本では、天皇を太陽神である天照大御神の末裔と位置付けることで、その支配の正統性を説明しようとしたのである。
太陽を特別視し、信仰するのは日本だけではない。ギリシャやエジプトの神話には必ず太陽神が出てくるし、世界中様々なところに太陽への信仰は見られる。私たち個人にも、初日の出や山頂からのご来光など、太陽をありがたがる習慣がある。


(初日の出、筆者撮影)

 太陽はなぜこれほどの信仰を集めるのだろうか。それはその光でくまなく大地を照らしてくれるからである。旧約聖書の一節にこのような言葉がある。

神は言われた。「光あれ。」すると光があった。
――創成記1章3節

 これは、神が世界を作る場面において放った言葉である。それ以前の世界は暗い闇が大地を覆っていたのだが、神のこの一言によって地は光に照らされ、明るくなったのである。
ところで、私は最近あるアニメのオープニング曲にハマっている。その一節を以下に示そう。

光あれ 行け 影と歩幅合わせ
己と戦う日々に幸あれ
歪曲(まが)らず屈折(くっ)せず 理想を追い続ける
その覚悟を「光」と呼ぼう
――「ヒカリアレBURNOUT SYNDROMES

私がこの曲にハマったのは、光あれ、というフレーズのもと、アップテンポで熱くなれるところが気に入ったのが理由である。しかし、それ以上にこの曲は私に訴えかけてくるものがあった。
我々雄弁会員は皆、社会変革を志している。そうでない人でも、何かをしたい、変えたいという思いはあるのではないだろうか。この社会変革とは、当たり前だがそう簡単なことではない。社会を変えるといっても、まず自分に勝たなければならない。
人間は、常に欲望に晒されている。そして人間は、楽なほうへ流れたいと思う。現代はゲームや飲み会、様々なイベントのように楽しいことは山程ある。翻って、社会変革とは一般的に針の穴に糸を通すよりも困難な事業であり、多くは苦労を伴うものである。楽なものを志向する自分と戦うというのは、非常に難しいことである。上の歌詞にある理想を追い続ける覚悟とは、自分に打ち勝った先にあるのではないだろうか。
 もし自分に勝てたとしても、社会変革には大きな壁が待ち構えている。それは社会という非常に大きな集団である。何億何万といる知らない人にひたすら働きかけ、社会を変える。これは膨大な手間と時間、そして苦労を伴うだろう。おそらく自分一人ではどうにもできないと感じるかもしれない。
人間は一人では何もできないちっぽけな存在だとよく言われる。殊に日本では同調圧力、空気を読むなどの文化があり、異端者は村八分にされ、嫌われる。「出る杭は打たれる」という諺は、日本社会を的確に表しているといえるだろう。一人目立つのは良くない。一人では何もできない。これは本当だろうか。答えは否である。
 歴史上、異端者は確かに嫌われてきた。しかし、多くの偉業を成し遂げたのもまた、その異端者なのである。アインシュタイン然りキング牧師然り。そもそも異端者という言い方自体が、多くの無関心な人間による嫉妬にまみれたレッテルである。
たった一人の個人の、とても小さな光であっても、その光で周囲を照らし、最終的にそれによって全体を明るく照らすことは、可能である。これは聖書に載っている、神にしかできない奇跡ではない。なぜなら、これまで社会を変革してきた偉人たちは、たった一人から始めて社会を変革しているからだ。
光に広大な地を覆う闇を晴らす力があったように、理想を追い続ける覚悟という名の光には、大きな社会というものを変革していくだけの力がある。そして人間は、その偉業をなすことが可能である。
人間は、楽なほうへ流れたいと思う。しかしその人間は、楽なものを捨てて、苦しみや困難に立ち向かうことができる。それはなぜか。それは、苦しみを超えたその先に、幸せが待っていると信じているからに他ならない。
このコラムの終わりに先程の歌のサビを記しておこう。

光あれ
行け 闇を滑走路にして
己の道を敬虔に駆けろ
光あれ
一寸先の絶望へ
二寸先の栄光を信じて
――「ヒカリアレBURNOUT SYNDROMES

社会変革。その前には絶望が待っているかもしれない。しかし、我々はその目標を達成するという栄光のために今日も奮闘する。全ての社会変革者に対し、最後にこう言おう。光あれ、と。