"Who permitted me to be a woman?" 法学部三年 吉原優

紙面の上で、誌面の上で、あるいはデジタル媒体の画面の中で、「女性の社会進出」という言葉が躍る昨今。

 女性が“輝く”社会にするために、女性を“活用”する。

 それは、立派なスローガンを掲げた、素晴らしい試みのようにも思えます。

 血を吐くような歴史を踏んだ、その着実なひとつの成果として、現在の“男女平等”の社会はあります。

 社会の意思決定にすら携わることも出来ず、ただ命を次代へ継ぐ道具のような扱いをされた、そんな歴史の下に踏み躙られてきた女性たちに比べれば、現代を生きる女性はとてつもなく恵まれていると言えるのでしょう。

「元始、女性は実に太陽であつた。真正の人であつた。今、女性は月である。他に依つて生き、他の光によつて輝く、病人のやうな蒼白い顔の月である。」

 明治の女流思想家であった平塚雷鳥は、文藝誌『青鞜』を刊行するにあたり、上述のような言葉を寄せました。

 現代の女性を見てみましょう。“他の光によつて輝く、病人のやうな蒼白い顔の月”のようには、少なくとも見えないかもしれません。



 翻って、私の話をしましょう。

 この早稲田大学雄弁会という、歴史ある、いち大学弁論サークルは、完全なる男社会であると言えます。

 ただ、誤解のないように先に述べておくならば、ここにおける男女の扱いは、非常に平等であるとも言えます。なぜならば、議論において常に人は平等である、というのが、このサークルの長所のひとつでありますから。

 しかしながら、ここのサークルは、創立100年を越える伝統を有しているからなのか、それとももっと別の理由があるのかは知りませんが、本当に、とにかく、男社会の権化のような場所です。
 実際に、現時点でも30人近くいる会員のうち女子はたったの4人ですし、歴代140人近い幹事長の中で、女性の幹事長は私を含めわずかに2人だけ。その初めての女性の幹事長が誕生したことすら、わずか15年ほど前の話だといいます。

 そんなサークルにまず入ってきて、信じられなかったのがお風呂の時間。
 新入生として最初の合宿に挑んだ時、私はまず驚愕しました。お風呂の時間として想定されていれていたのは、わずか30分でした。明らかに男子の烏の行水しか想定していない時間配分です。

 それから面白かったのが、活動ひとつひとつの泥臭さ。
 明らかに、女子同士の繋がりには見られないような密度で、このサークルの活動は続いていきます。同期同士、先輩後輩関係、お酒で繋がったり、あるいはなにかの熱で繋がったりと様々ですが、とにかくそのひとつひとつが泥臭い男同士の繋がり方を想定しているんです。

 あとは、求められる根性論も見モノでしたね。
 自分がそういった類の女子ではないことを前提にしても、大学構内で同じようなパステルカラーの洋服を着てかわいらしく微笑み合っている女子たちには耐え難いことが想像できるほど、このサークルの活動には“根性”と“忍耐”が求められます。もちろん、いい意味で。

 そんな環境の中で生き始めて、かれこれ2年半以上が経ちました。私は高校まで完全共学の中で育ちましたし、それなりに同性の友だちもいましたから、ここまで男しかいないような環境にも実はそんなに慣れていませんでした。

 最初の1年。ここを乗り切れたのは、本当に女子の同期がいたからだと思います。彼女と一生懸命、2人で支え合いながら、同期の男たちの愚痴を言いながら、どうにかこの男社会で“女”という殻を2人でつくって自分たちを守りました。

 けれど、2年目に差し掛かったころ、その女子の同期が様々な事情があり、会を辞めてしまいました。私は途方に暮れました。今まで“女”という殻に閉じ籠っていれば守ることが出来たものが、急に守れなくなってしまった。
 しかもそれは、女子にとっては実は一番必要なものでした。いわば、“同調性”のようなもの。私は唐突に、それを奪われたことを悟りました。

 2年目に入りました。その時、同期は私を含め6人。うち、5人は男子でした。そして驚くべきことに、1つ上の3年生の代にも、2つ上の4年生の代にも、女子の先輩はいませんでした。新入生が入ってきていない2年生の3月から4月にかけ、私はこのサークルの中で、本物の紅一点だったのです。
 その時、私はどうしたか。簡単です。この環境の中で“同調性”を求める一番な簡単な方法は、自分が“男”であると振る舞うことでした。実際、私はそう振る舞いました。殊更に自らが“男”であることを強調し、この男社会に対して自らへの“同調”を求めました。

 いま思い返せば、とても苦しかった時期でした。でもその頃はあまりにも懸命で、自らの振る舞いが逆に男社会に馴染んでいないことに気付きもしませんでした。

 そのうち、後輩が入ってきました。女子が数名、合宿に来たことはとても嬉しかった。同時に、その女子たちが、自らとはまったく違う“女子”であることに気が付きました。彼女たちは“男”として振る舞わなくてもよかったのです。
 それは彼女たちが“同調”を求めない女子たちだからなのか、それとも私という贄がいたからなのかは定かではありませんが、私は最初、私と彼女たちの対比の中で、彼女たちの振る舞いに強烈な違和感を覚えました。

 そのうち、違和感はどんどんと膨らみました。どんなに“男”として振る舞っても埋まらない同期たちとの溝や、男である後輩たちと男である同期たちとの関係性に、私は苛立ちを募らせました。こんなはずじゃなかった。こんなつもりで、私は“男”として振る舞ったのか。

 ゆるり、ゆるり、と煙は立ち昇り、やがてその麓から炎は燃え立ちました。きっかけがなんであったか、そして自らがどのように自らを方向転換させたのか、正直、私はその頃の自分を明確には思い出せません。
 けれどその時、確かに“男”という脆い盾は私の手から離れていきました。代わりに残ったのは、女子であったはずの私でした。

 その瞬間、私は“強さ”を失い、“弱さ”を手に入れました。

 男社会では脆弱さの象徴であるもの。男社会では理解され難いもの。男社会では、おそらく淘汰の対象となるもの。


 それは、“母性”と言い換えられるかもしれません。


 そこからの私は、それまでの1年間の私ではありませんでした。自らも驚くほど、私は変わりました。当時の私を知る友人から「ホントに変わった」と驚かれるほどです。

 そうして、母性を手に入れた私は、この男社会の権化に、ひとつだけ小さな石を投じました。今まで“父性”によって回ってきたこの社会に、“母性”の存在をひっそりと焼き付けて、私は舞台を降りました。



 さて、冒頭のお話に戻りましょう。

 女性が“輝く”社会へするために、女性を“活用”する。

 それは、立派なスローガンを掲げた、素晴らしい試みのようにも思えます。

 血を吐くような歴史を踏んだ、その着実なひとつの成果として、現在の“男女平等”の社会はあります。

 社会の意思決定にすら携わることも出来ず、ただ命を次代へ継ぐ道具のような扱いをされた、そんな歴史の下に踏み躙られてきた女性たちに比べれば、現代を生きる女性はとてつもなく恵まれていると言えるのでしょう。


 さて、みなさん。
 “活用”することが、なぜ“平等”であると言えるのでしょう?


 考えてみてください。いまの社会が求めているのは、結局、次代を継ぎながら労働力にもなる、そんな都合のいい女性像です。ともすれば、過去よりももっと悲惨かもしれません。だって、母性も父性も、どちらも現代の女性には求められているのですから。

 確かに、女性は再び太陽のように自らの力で輝けるようになりました。しかし、その“輝き”という称号は、今でも父性を有している女性にしか与えられていないように思えます。
 本当は、“男女平等”という言葉は、母性と父性が同居した場所にこそ似つかわしいはずであるのに…?



――男から女への最高の誉め言葉は、「あなたは考え方が女らしい」と言うこと――
英国初の女性首相 M・サッチャー