「超克、その向こう側へ」政治経済学部二年 井守健太朗

早稲田は春を迎えた。早稲田キャンパスの南門前の桜は毎年、こぢんまりと咲く。しかし、普段私が見慣れた大隈講堂を背景にした早稲田の風景に桜は花色を添え、豪勢な春色を醸し出す。実に心躍る季節である。新歓期も始まった。私のある同期は新歓期を「祭」に形容していたが、実に巧妙な例えである。新入生いっぱいの、活気に満ち溢れた早稲田キャンパスは、まさに祭りの様相を呈している。
春は、新たなスタートを切る絶好の季節だ。本コラムは、春から何かを変えたい、あるいは新しいことを始めたいと考える人々にぜひ読んで頂きたい。
最初に奇怪な質問をぶつけたい。何か新しいことを始める、何かを変えたい、そういった自身の心情はどこから生まれるものだろうか。
模範解答の一つがこれだ。私たちは何かしらの目的があるからこそ、何か新たなことを始める、何かを変えることが出来る。その目的が初めにあって、その目的に従って自らの行為が変化する。だから、目的を何かしらのきっかけで発見したときである、と。
―それでは目的は一体どうして発生するのか?
この社会全体を、あるいは人間関係を俯瞰したとき、目的を発見することには、ある要因が通底していると私は考える。
卑近な例だが、サークル選びの例を挙げよう。サークルへの入会とは、初めからある目的を有し、それに従い特定のサークルを選ぶことである。全くその通りである。しかし、それだけではないはずだ。行ってみたら面白かった、たまたま声をかけられて先輩と話してみたら面白かった、最初は入る気が無かったがとりあえず入ることにした―このような声は本当に多く聞かれる。私たちは決して強い目的意識を抱いて、行為を具象化させてはいない。そうではなく、行為が先に具象化され、そののちにその行為を正当化するための合理化が自身で行われることが多々あるのだ。先ほどの質問に答えるならこうだ―「目的の発見ではない、その人自身と周囲の人々の関係性の変化だ」
目的意識とはある意味、脆い。周囲の環境が変わり、相対化されることで、簡単に信ずることが難しくなってしまう。ここから分かるのは、それぞれに固有な目的意識を称え、絶対化する近代的人間像の「欺瞞」である。近代的人間像とは、一般化すればそれぞれが有する価値観から合理的に判断し活動を行う生き物として人間を捉える考え方である。古くはデカルトに始まり、現代でも新自由主義、文化の相対主義にその継続性が認められる。

「人間は合理的な生き物なのではない、合理化する生き物なのである。」
―小坂井敏晶『社会心理学講義』より抜粋

個人主義相対主義、私たちの信じる語群は、人間の合理性、自律性を賛美している。先のサークル選びの例であれば、「目的→行為(選定)」という矢印の向きを近代的人間像は前提とする。しかし、サークル選びで挙げた他の事例のように、私はこの近代的人間像だけでは人間の全てを説明していることにはならないと思い、またむしろもっと人間とは合理化を事後的に行う生き物ではないのかと考えている。先に抜粋した『社会心理学講義』で詳細が論じられているが、70年代以降の自然科学(脳神経学、精神科学など)は、まさに脳の働きと人間の行為を調査することで、近代的人間像を否定している結果を導出している(もちろんこれは自然科学という領域からの批判に過ぎないと論じることも可能である)。
この私の価値観は、社会でもいい、自己でもいい、組織でもいい、変えたい、新たに始めたいと考える変革者たちに一つの考え方を提示することに繋がる。つまり、変革への意識とは、極めて偶然的かつ自然発生的な要因によって自らとその外部との関係性が変化するから生じるものであるということだ。関係性の変化とは、いわば何でもいい。私たちが日常で刷新しているのは、経験領域である。今日あったことは明日には起きない。人との出会いも、別れも、見ている景色も、である。それは読書でもいい。同じ本であっても、同じ箇所でない限り読む内容は異なるわけであるし、時間を置いて同じ箇所を読めば新たな発見があることは日常茶飯事である。
私たちの日常こそ、刷新的である。だからこそ私は、常にあらゆる人々は開かれ、刷新可能性に満ち溢れていると考える。他の生き物とははっきり異なった、人間が授かった非常に素晴らしい固有な機能である。変革の目的が強固なことは大変素晴らしい、「一貫している、あの人は誠実的である」―もちろんその通りである。それは、社会に発した言葉に責任を持っているという意味だ。自己の内部における価値観が無変化であり、ある一つの価値観的目的を頑固に守り通すことではない。変わってもいいではないか。そのために、自分と他者との関係性は存在する。変わった自分がなぜ変わったのか言葉で示せばいい。
変革者に必要なのはこの刷新可能性との誠実な対峙である。社会変革も組織変革も自己変革も、常にそこにいるのは人と人との一対一の関係性なのである。あの近代的人間像は欺瞞である。本当は近代的人間像によって肯定的に捉えられていた変化の主体性を、むしろその帰結は雁字搦めにしてしまっている。これはまさに逆説的と言える。
これから何かを新しく始めたい、何かを変えたい全ての人々へ。はっきり言って、それは中々上手くいかないだろう。特に、自己、組織や社会など、それまで守られてきた閉鎖性の強い領域に関わるものであれば、猶更である。アイデンティティー、伝統、文化、規範、これらは同一性の維持に必要不可欠なものだ。だからこそ、変革には困難が生じる。その困難は、組織や社会が悪いわけではない。自分が無知だからではない。むしろ、逆境があって当たり前なのである。上手くいかなくて当たり前なのである。自分とその外部との関係性だからこそ、それは一歩ずつでしかなく、しかし確かな変革への一歩であろう。何か絶対的な真理から社会は演繹され得ない。着実な一歩ずつの人間と人間の歩みの中で刻々と社会は色づき、形作られる。私たちの歩みもその中のごくわずかな一部なのである。
困難を乗り越える、すなわち超克―その向こう側にあるのは、また困難なのかもしれない。その命が消えるとき初めて、シニカルに言えば自分の人生を「合理化」できればいいのだろう。しかし大事なのは、刷新可能性に満ち溢れている人間だからこそ、つまり「何かが出来るようになった」代償としてその達成には困難がつきものだということだ。簡単な話である。何かが出来るようになったなら、それをやりたいと思う限りとことんやってみればいいのではないか。
春は出会いの季節である。それぞれのドラマを持った新入生が早稲田に入れば、また新たな人間関係が生まれる可能性がたくさんある。止まるか進むか。
超克―その向こう側にあるのは、白紙の未来である。