Contents for Sending Values  共に在る「世界」 第二弾(下):現代にいたる意識の変化②

政治経済学部二年 佐々木哲平



今回のコンテンツ第二弾(下)においては、まず現在の日本がおかれている状況を考察した上で、価値合理性や意味付与の機能を具体的にどこに見出すべきか論じる。

リベラル民主主義

戦後、日本は自由主義・民主主義・個人主義が浸透した。これまで束縛されていた伝統的な観念にとらわれることは決してなく人々はみな自由に考え、行動してもよいようになったのである。これは70年代以降から言われ始めた社会の成熟化、価値観の多様化というものを生み出し、現代は更にその成熟の度合いが強まっている。
自由や民主主義というのは一見すると聞こえはいいがそれはあくまで様式の問題であり、「自由になるべきだ」といってもその「自由に行動する」という様式を当てはめただけで行動の中身を問うことは無い。民主主義といっても「民主主義的な様式を採用すべきだ」というだけでそこで決められたことには疑いを持つことはできない。「自由」や「民主主義」自体はばらばらな個人からとってみれば最大多数の最大幸福(効用)を実現する上で最も経済合理的な「様式」であるが、問題はその中には一切価値の言及がなされないことである。結局「自由」や「民主主義」の様式を重視しすぎることによってその中の「価値」に無頓着になってしまうのである。その結果として表れるのは「価値」をまったく無視した利己主義と情緒主義であり、これが価値観の多様化といわれるのである。これが価値相対主義を内在しニヒリズムへと陥る一つの理由である。

小泉改革ニヒリズム

一方で現在の小泉改革ニヒリズムと強い関係にある。小泉改革は経済の回復・財政の健全化に大きな貢献をしたことは言うまでもないが、その個人主義能力主義成果主義にみられる経済合理性の徹底は、その背景に個人が最も経済的(功利主義的)に行動する存在であるとの認識を持っている。まさに小泉改革とは経済合理性を最重視するホモエコノミクス(経済人)を想定し、ホモエコノミクスの為の制度(市場)を整えようというものなのである。この世界では誰しもがゲーム理論的に最も合理的な戦略をとることを求められるのだ。
これも先ほどと同じように経済合理性の強調ばかりが行われ、価値合理性をまったく軽視している。典型的なホモエコノミクスは経済合理性のみで行動するゆえ、価値合理性にはまったく無頓着である。つまりこれもまたニヒリズムといわざるを得ない。

これと同じような現代を表す言葉としてジョージ・リッツァの提示した「マクドナルド化」というものもある。ものすごく簡単に内容を言うと徹底した経済合理性追求は生産ラインを合理化するだけに留まらず、そこで働く人間や消費者の行動までも合理化してしまうというのである。これもまた人間を環境管理型の権力によって経済合理的な要請に従わせようというものであり、いわゆる「動物化」すなわち快楽と安全のみを追求するようにしてしまう。*1 

 

コミュニタリアニズム

このようなニヒリズムに陥らない為には、つまり世界に意味を見出す為には、どうしたらよいだろうか。ここで私はコミュニタリアニズムの議論を取り上げたい。
コミュニタリアニズムリベラリズム功利主義が主張するような人間像を「断片化された個人」であるとして批判し、人が自律的に行動できる前提として共通善の存在が欠かせないと主張したのである。「断片化された個人」とは「善」を意識することなくただひたすら自己利益の追求を目指す人間像であり、ホモエコノミクスに近い存在であるといえる。これはリベラルコミュニタリアン論争でも明らかになったように上記の「自由」「個人主義」を最も重視するリベラル民主主義によって生まれてしまうのである。このような事態を回避するためにはいわゆるコミュニタリアンが主張する「共通善」の保持が欠かせない。伝統的な価値観(負荷)を個々人が社会化する過程を通じて自己に内面化し、それを保持することで共通善は再生産され受け継がれる。*2

地域コミュニティの役割

この共通善が再生産され続けていれば、例え経済合理性を強調せざるを得ないメガコンペティションの時代*3であっても人はニヒリズムと戦うことができる。それに経済合理性も価値合理性と同様、本来的に人間に備わっているものでもあるから、それ自体否定することはできない。
しかし、共通善が維持・再生産される機能は今の日本では非常に弱体化しているといわざるを得ない。かつて人が社会化し共通善を持つようになった場は地域コミュニティであった。ここでは様々な年代の人々と日常的に触れ合うことが可能であり、その日常を通じて社会化し、共通善を継承することができた。だが、今や大都市では地域共同体が消滅してしまい、それ以外の場所でも地域共同体は崩壊の危機にある。このような状況では共通善の継承に失敗し利己主義や情緒主義に陥りやすくなってしまうのは当然である。
よって人々の社会化を通じて、価値合理性(善)や世界に対する意味付けを与える場としての地域コミュニティの機能の再生を目指していかねばならないのである。


このコンテンツは連載形式です。連載一覧は、こちらへ→http://www.yu-ben.com/2006zenki/contents/top%20page%20all%20members.html早稲田大学雄弁会HP内)

*1:経済合理化、マクドナルド化について、より詳しくは、以下をご参照ください。早稲田大学雄弁会HPhttp://www.yu-ben.com/frame.htmlにおける、構造把握研究会『蒼い星』  レジュメ「文化帝国主義とは?」http://www.yu-ben.com/2006zenki/kouzouhaakukenkyukai/aoihoshi/sasaki1.html【文化のアメリカナイゼーションマクドナルド化】の項

*2:リベラルコミュニタリアン論争について、より詳しくは、以下をご参照ください。早稲田大学雄弁会HPhttp://www.yu-ben.com/frame.htmlにおける、構造把握研究会『ライフ・イズ・ビューティフル』  レジュメ「リベラルコミュニタリアン論争と共同体観」http://www.yu-ben.com/2006zenki/kouzouhaakukenkyukai/life%20is%20beautiful/sasaki1.html ―リベラル−コミュニタリアン論争―の項

*3:この「経済的要請」について、より詳しくは、以下をご参照ください。早稲田大学雄弁会HPhttp://www.yu-ben.com/frame.htmlにおける、構造把握研究会『蒼い星』  レジュメ「文化帝国主義とは?」http://www.yu-ben.com/2006zenki/kouzouhaakukenkyukai/aoihoshi/sasaki1.html【政策の収斂現象】の項