「大会を終えて」

法学部1年 小倉勇磨

12月22日に東京農業大学農林水産大臣杯争奪全日本学生弁論大会が行われ、私は弁士としてこの大会に出場しました。残念ながら優勝することはかなわなかったものの、この大会を通じてさまざまなことを考えさせられました。それは説得するとは何か、ということです。
自分の考えや事実、社会認識を相手に伝えることを説得と定義するのであれば、社会活動の中でもかなり多くのことが説得に当たるでしょう。そしてそれを「誰が」、「誰に」「どのように」説得するのか、ということを考えると、説得の方法にもさまざまなものがあるのがわかります。たとえば、ニュースキャスターが朝のニュース番組で私たち視聴者に今日起こったことを伝える、このことも社会に対する認識を共有するという意味において一種の説得活動と呼べるでしょう。ではその説得は「どのように」行われるべきでしょうか。当然、子どもから高齢者の方々まで「誰もが」理解できるように行われるべきです。すると、専門用語を多用しない、使用するにしても説明を加えるなどの説得するための工夫が必要となってきます。では一方、専門家が自分と異なる価値観を持つ専門家に自分の主張を説得する場合はどうでしょうか。その場合、専門用語が飛び交い、経済学の理論や法律の知識等をふんだんに盛り込んだ、激しい議論になることが予想されるでしょう。
この2つの例から言えることは、説得の形態は目的や対象によって変わるものであり、また、そうあるべきということです。たとえばニュースキャスターが朝のニュースで専門用語を多用すれば、どうなるでしょうか。当然、ほとんどの人は理解することができないでしょう。そうなれば当然、多くの人に事実を伝えるというニュースの目的は達成されないことになります。一方で、専門家に関しても同じことが言えるでしょう。私たちは説得する対象や目的によって、自分の主張を伝える手段を選択する必要があるのです。
では社会を変えようとする意思を持つ人間は、どうあるべきでしょうか。たとえば、政治家を想像してみてください。政治家の説得する対象、目的が国民全体であることを考えれば、その手段は当然わかりやすく、誰もが理解できるような方法で伝える、ということになるでしょう。しかし、一方で政治の目的がよりよい社会の実現ということである以上、誰もが簡単に理解できる、ということのみでは不十分です。当然、経済や法律などの専門知識が必要とされることも多いでしょう。故に社会を変革するというのであれば、この両者が必要となるのです。
弁論大会を終え、改めて自分が説得ということを考えられたことをうれしく思います。また、それと同時に大会で農政改革について訴えた以上、社会変革者としての自分がどうあるべきか、常に考えていかなければならないと思いました。社会を変えるというのであれば、当たり障りのない言葉を並べるだけでは不十分です。それと同時に、その言葉の裏に蓄積された知識があってこそ、はじめて社会変革者足りえるのだということを、私たちは常に忘れてはならないのです。