「君は確信犯だ!」

法学部1年 鈴木陽平  

『君は確信犯だ!』、そう言われた人も少なくないだろう。ふと思う。「確信犯」。テレビにおいても私たちの日常会話においても最近多用されているこの言葉。この言葉を使うのに躊躇するのは私だけだろうか?

辞書で調べてみた。広辞苑第5版によると「確信」とは、『固く信じて疑わないこと』。

また「確信犯」とは、『道徳的・宗教的または政治的確信に基づいて行われるは犯罪。思想犯・政治犯・国事犯などに見られる』とある。テロリストなどがこれに当たる。

しかし、最近「確信犯」という言葉は、一般に「悪いことと知りながら犯罪を行う人・行為」、「結果を予想した上で計略を巡らす人」という意味で使われる場合が多い。これは本来の語義とは異なる。確信犯とは「自分が行う事は正しく、周囲(社会)こそが誤っていると信じ切っている」事なのだ。


最近話題のコンプライアンスに目を移してみよう。現在はコンプライアンス法令遵守)という言葉が花盛りである。企業不祥事の増加とともにここ数年コンプライアンスの意識は高まっている。不祥事を防止することから始まったコンプライアンスは法という枠組みがあるゆえに受け身の姿勢である。なぜなら、枠組み、決まっていることをその通り守りさえすれば満足してしまうからだ。確かにコンプライアンスの徹底は現在の社会において非常に重視しなければならないものだ。しかし、それだけに頼ってはいけない。

法の通りに従えばよい、と機械的に遵守することは個人が悩み、考えるという行為を減退させる。


時代に応じて言葉の使われ方も変化する、とよく聞くが、この確信犯という言葉もそうだと思う。

最近の相次ぐ賞味期限切れ食品を隠ぺいのニュースを耳にするたびに、やはり、近年の「悪いことと知りながら犯罪を行う人」という意味での確信犯が増えていると感じる。この確信犯という語意の変化は、道徳的に「自分が行うことは正しい」と胸を張れる確信犯が少なくなってきたことを意味するのだろうか。


「自分が行うことが正しい」か「正しくないか」は別として、自分が行うことについて悩み、考えることが大切だと思う。法や決められた事柄に盲目的に従うことは簡単だ。なぜなら考えることを必要としないからである。受け身になって悩み、考えることをやめてはいけない。


合理的な人間より、悩んで、悩んで、考える人間でありたいと思う。