「国境の壁と言葉の壁」政治経済学部2年 中川紘一


私たちは日々の生活の中でコミュニケーションを言葉を通じて行う。
もちろん手話や点字、ボディランゲージも言葉の一種である。
日本には日本語が英語圏では英語が使用され、隣の大国中国では中国語が使われている。
今世界共通語として使用されているのは主に英語・仏語・中国語であると思われるが、東アジアに関する事象を主に勉強している私は東アジアにおける共通語が必要であるかを考えてみた。

国際会議を考えればいいのだと思うが、例えばEU等では会議上公用語全てが使用され、全公用語での文書が再提出され、会議には同時通訳が入ることになっている。
それにならって東アジアも英語に限らず共通言語を作れば(今のところ中国語か英語が最も効率的にできるだろう)、時間ロスもなく効率的な会議が行えるのかもしれない。

しかし、私は東アジア地域にはそのような共通言語は必要ない、むしろ作るべきでないと考えてしまう。
それは2つの点から考える。
1つはEUNAFTAと違い、宗教も国民性も民族もバラバラな東アジアにおいて、独自性を保つということは非常に大切なことかつ、大変なことではないか、ということだ。
英語にしろ中国語にしろほかの言語にしろ、言語と言うのはその国の文化である。
一国の主張を行う際にほかの国の文化を使うというのは自国の独自性を保つ上で問題である。
もう一つの点は、自国の国の言葉を使わないで自分の意思をしっかりと伝えられるのか、ということだ。
通訳と言うスペシャリストが存在し、仕事として成り立つほど言葉の世界は難しい。
ならば意思表示は自国の言葉で行い、各国がそれをプロに任せて通訳する方が伝え間違いが少なくなる。
文化の違う東アジアだからこそ伝え間違いなどが起こりやすく、誤解を生みやすいのだ。
 
ただ時間的・金銭的・効率的には圧倒的に共通言語を作る、指定する方が有効であることは間違いないので、この点をどう改善するかが問題になるだろう。

自分の最も得意とする言葉を使い、真剣に議論するからこそ伝えたいことも伝わるし、返事も返ってくると考える。