「暫定解」 法学部二年 野村宇宙

「自由意志は存在するのか」。
 この問いに直感的な返答をするならば、「存在する」と私は即座に答える。しかし、次の瞬間、私は立ち止まってふと考える。果たして、本当に自由意志は存在するのだろうかと。仮に存在すると言えるならば、それは何故そう言い切れるのだろうかと。そこまで考えたとき、私は答えに詰まってしまった。私は今、自らが自由意志によって何物にも束縛されず、行動を選択していると信じている。だが、そもそもそれは思い込みに過ぎないのかもしれない。ひょっとしたら、「私がAという行動をとること」は脳内の電子信号の伝達を始めとする諸条件から鑑みれば必然的な帰結であり、何らかの偶然や人による自由な選択といったものは介在しないのかもしれない。そう考えてみると、それまで自らの中で自明であった「私は自由意志によって自らの行動を選択している」という事実の確かさが次第に揺らいでくる。ではここで、次の問いに移ろう。
 「因果律は真理か」。
 この問いにまたも直感的な返答をするならば、「因果律は真理である」と私は答える。しかし、先程と同様に今一度立ち止まって考えてみよう。私たちの多くは因果律に対する信仰心を有している。ここで、因果律が成立するには因と果が互いに区別され、因が果に先行し、因が果を惹起しなければならない等の諸条件が満たされなければならない。しかし、これらの諸条件の成立は自明だとは言い切れず、むしろ日常的な経験に基づいた錯覚に過ぎないと言うこともできる。これは先程の自由意志の話とも関わってくる。例えば、殺人事件においては、殺人犯が犯行時に相手を殺すか否かという2つの選択肢があった上で、前者の選択肢を自由意志によって選んだ、と通常私たちは考える。しかし、この時点で既に錯覚に陥っているとしたらどうだろう。事件当時に殺人犯が行った、相手を殺すという行為は1つであった。だからこそ、それ以外の選択肢はそもそも存在すらしていなかったのだ。そう考えることもできる。だとするならば、私たちは「人の行為には必ず意図があるように、世の中のあらゆる事象(結果)には原因が存在する」と思い込んでしまっているのかもしれない。
 このように、多くの人々が直感から自明だと判断し、それに確信すら抱いている事実の確かさを疑い、それについて改めて問い直すのが哲学だと言える。
 「人は死んだらどうなるのか」。「人は何故生まれるのか」。「幸福とは何なのか」。「霊魂は存在するのか」。「過去世や来世は存在するのか」。「世界は存在するのか」。「宇宙の果てには何があるのか」。「世界は永遠に続くのか」。「いつ世界は始まったのか」。
 昔は疑問を抱いていたのに今ではあまり考えなくなってしまったこれらの哲学的な問いに、私はまだ自らを納得させられる答えを見つけられてはいない。いつか、自らを納得させられるような答えに巡り会うことはできるのだろうか。それまでは、「人は死んだら世界と一体化し、認識できなくなるが存在はする」、「個々人の誕生には何らかの意味を見出すことができる」、「幸福とは個人が主観的に自らが幸せだと感じることである」、「いわゆる霊魂に匹敵する何かは存在するはずだ」、「記憶は引き継げないが、霊魂に匹敵する何かが経験した過去世や経験するであろう来世は存在するはずだ」、「世界は存在するはずだ」、「宇宙の果てには、現在は観測できていない宇宙の外の世界が広がっている」、「世界が終わりを迎え、一切が無に帰すことはなく、世界を認識できなくなっても何かが存在し続けるはずだ」、「無から有は生まれないため、世界は初めから存在していたはずだ」という暫定解たちを、それなりには信じていたい。