「<他者>について語るということ」法学部二年 稲葉浩輝

 早稲田大学雄弁会。雄弁でもって社会を変革する。そんな大層なことを掲げ、社会に対する当為を日々錬磨し弁論を通して当為を実践するのが、我々雄弁会員です。113年もの歴史の中で、「雄弁」という社会変革の手段は、伝統となりました。

 私はこのサークルで活動する中で、「社会について語るとはどういうことなのか。」と自らに問いかけてきました。これではあまりにも問いが漠然としているので、少し具体化しましょう。

 人々は社会について「Xが問題だ」という形で、自らの問題とするものについて発話をします。貧困が問題だ、児童虐待が問題だ、民族紛争が問題だ…etc といった調子で。「Xが問題」という言説をさらに詳しく考えてみましょう。「Xという社会事象によって、Yという人々が苦しんでいる。救わなければならない」という意味が、「Xが問題だ」という言葉に含まれています。そんなこと当然ですね。では、この問いを少し変えてみましょう。
 
 『なにゆえ「私」が「Yという人々」について語ることができるのか。』

 これはしかと考えなければならない問いの様に思えます。社会問題について語るということは、すなわち〈他者〉について語るということに他なりません。Yという人々は、私とは違う、固有の経験をもつものです。私と〈他者〉の間には、高いものか低いものかはさておき、必ず「塀」があり、それは、乗り越えることのできぬものです。私は〈他者〉をその塀越しに、まなざすことしかできません。

 私は〈他者〉の被る、苦悩、葛藤、生活での困難などは味わうことはできないというだけではなく、私は〈他者〉ついて語ることができる状況にあるという特権さえ有しています。「そんな立場の違う私が、他者について語ることは暴力ではないのか」、「なぜ私が彼ら/彼女らについて語れるのか」これが私の違和感の始まりでした。

 この問題については、「表象不可能性」という名前がつけられ多くの議論がなされてきました。アラブ文学者であり第三世界フェミニズムの研究者である岡真理氏はこう問いかけます。

 「他者の真実とは、まさにそれが真実であるがゆえに表象不能の深い深淵であり、私たちは、その深淵のふちを手探りで辿ることによってしか、あるいは、その深淵を満たす圧倒的な沈黙の重みに静かに身を委ねることでしか、触知することができないのではないか。」(岡真理 2000『彼女の「正しい」名前とは何か』青土社: p118)

 〈他者〉について語ること。それは、他者についての真実(或いは「経験」)を、他者に代わって、私が発話するということとして社会で機能します。私は他者についての真実を知りません。他者に固有の経験は、私は経験することができない以上、私は他者の真実を表象することはできません。いや、表象できないのは、彼ら/彼女ら自身でもそうかもしれません。

 考えてみてください。感動した気持ち、悔しかった想い、怒った感情。それは言葉にして表象することができるでしょうか。多少はできるかもしれません。しかし、自分自身の経験を、言葉にして表現するときには、何度も言い直したり、また文章を書いてる時であれば、書き直したりすることは日常ではないでしょうか。140文字のツイッターでなにかを表現するときも、書き直したりすることは意外と多いのではないでしょうか。言い直し、書き直し、やり直し、ためらい… それらの繰り返しが、我々の「自己表象」なのです。そんな、自らが表象することも困難な−或いは、全てを表象することが不可能という意味で、「表象不可能な」と言ってもよいかもしれません−経験を、他者が語ることが果たしてできるのか。

 また別の側面から、この表象不可能性について考えてみましょう。もしあなたが「表現する術」を失ったら。事情はなんでも構いません。喋ることも、なにかを書くことも、体を動かすことも困難な状況を想像してください。そのような状況でも、意識は残っている。そして、あなたを囲む人々は、あなたには何も聞こえていないとたかをくくって、あなたについて噂をし、あなたの周りには耳障りな言辞が飛び交います。しかし、あなたは反論できません。もし他者があなたの真実とは異なることを言っているとしても、言い返すことすら、反応することすらできない。〈他者〉について語ること、それは、〈他者〉を支配することですらあるのです。

 少し脇道にはそれますが、「噂」について考えてみましょう。人間は卑しい生き物です。本人がいないところでこそ、噂は盛り上がり、噂をするものたちは快楽を得ます。それは、なぜ快楽なのか。それは、支配だからです。本人がいないところでは、いくら事実とは異なることを語っても咎められないし、話は誇大になっていく。そこで人々は、全能であるように感じる。そんな経験は、誰にでもあるのでしょう。ええ、私も、あなたも。そして、一度ではなく、幾度も。

 〈他者〉について語ること。それは、支配です。無自覚的な暴力の行使、といってもいいでしょう。では、人は他者について語ることを禁じなければならないのか。他者について語ってはいけない、そう考えてなにも行動しなければよいのか。

 私にとっての答えは「それでもなお」です。他者の表象は不可能です。しかし、それでもなお、ニヒリズムに陥ることなく、私たちは語らなければならない。それはなぜか。他者の存在を忘却に押しやり、語ることを拒否することさえも暴力であるからです。虐殺されたもの、搾取されるもの。そんな彼ら/彼女らの存在を想起もせず、厳然と実在する問題について目を瞑ること。これは、ただの無責任でしかありません。

 表象不可能な〈他者〉の存在、そして語らなければならないという自らが引き受けた責任。この二つの相反する要請に我々はどう答えることができるのでしょうか。そこで3つの条件を検討しましょう

1.「〈他者〉による自己表象を傾聴すること」
自己表象は上述のように完全ではありません。しかし、他者の真実を唯一知るものは、他者でしかないのもまた揺らぐことのない事実です。他者による自己表象を傾聴し、その声を聞き分けていくことが重要となるのです。

2. 「〈他者〉が抱える「いたみ」の共感に努めること」
自己表象の先には何があるべきでしょうか。その先にいたみを「共感」することが必要ではないでしょうか。他者の自己表象を自らで噛み砕き、追体験をしようと努めること。その営為の中で、自らが理解できること、できないことの境界が現れてくる。

 上述の2つの条件は、他者の存在への接近を目指すものであると言えるでしょう。塀越しにまなざす他者の存在を、自らが背伸びして、知る努力をする。しかし、「塀越しに他者をまなざす」ということは、それが時には卑しいことにもなってしまう可能性もある。他者と話すこと、それは他者が「記憶」を想起することです。それは封印したい記憶かもしれない。その危険性は意識しなければなりません。しかし、他者の自己表象があるときに、我々は気づき、そしていたみを共感する努力をしなければならないことは変わらないことではないでしょうか。

 そして、次が最後の条件。

3. 「〈他者〉の表象不可能性を絶えず意識すること」
 他者の「いたみ」は、他者の真実は理解はできません。理解したい、他者の理解者でありたい。そんな欲望は誰しももってしまうものではあると思います。目の前で苦しむ他者のいたみを理解したい。しかし、理解はできないのです。追体験は、あくまでも追体験でしかありません。

 追体験とは、〈他者〉が歩いてきた道のりを、また違う季節に、違う視線から、違う想いで歩くことです。同じ景色は、二度と現前しないのです。追体験したことで自らの共感性の高さに陶酔することなく、他者の表象不可能性を絶えず意識しなければなりません。追体験は、〈他者〉という器からこぼれおちた、一滴の水を飲むようなものですから。

 私はわからない。なにも、わからない。そんな自らの無力さについて、「語ることのできるもの」は自覚しなければなりません。わからないことが、わからない。その傲慢さ、その卑しさ… それらから、決別しなければなりません。では、「共感」は、どうあるべきか。先述の岡真理氏はこのように答えます。

 「出来事の暴力性は、彼女たちのその苦痛とそれに対する私の「共感」は、彼女たちの「身体の深み」においてではなく、むしろ私自身の徹底的な非力さにおいて語らなければならないのではないか。」(Ibid: p230)
 
〈他者〉の存在を知る、背景を知る、生活を知る、共感に努める。もちろん重要です。しかし、その中で、まず第一に為さねばならぬことは、自らの不可能性への自覚、そして他者の表象不可能性を絶えず意識することです。

  私は〈他者〉の真実には到達しえない。だからこそ、私と〈他者〉との間にある、絶対的な共訳不可能性の先にこそ、「共感」という行為が可能になる地平を見出せることができるのではないでしょうか。私は、〈他者〉についてなにもわからない、そんなニヒリズムを極めた先にこそ、自らの非力さ、無力さについて目を向けた先にこそ、他者表象の不可能性を乗り越え、共感という行為を通じた「語り」が可能となるのではないでしょうか。

 では、最初の問いに戻りましょう。社会について語るとはどういうことなのか?