第二弾:家ある子。

法学部1年 小島和也


第一弾においては、幼児虐待によってその後の人間関係を築いて行くことが困難になってしまうということを示した。では、どのような解決の方向性が好ましいのであろうか。その方向として、1つには育児の社会化が挙げられる。これは公共機関が育児を完全に代替するというものである。この方向性は、子どもの価値感の多様性を担保していない。つまり公共機関が1つのマニュアルを提示して養育を行うことは個人の価値の多様性を認めてはくれないのである。よって育児の社会化には負の価値判断を下し、幼児虐待を無くすにあたってこの方法をとるのではないと考える。そして、地域共同体による共助関係を構築し育児不安を解消し家族を支えてゆくべきである。
地域共同体復活までの流れを示す前に親密な人間関係家族内の親密な人間関係がひいては他の多様な人々との親密な関わりにつながること)が養われる家族というのはどのようなものなのかを以下に示す。

家族。

人間が所与のものとして持っていてその構成員と多くの生活を共にする家族。この家族の中で人々は育ってゆく。この家族の中で成長してゆくにあたって親と子の関係性が親密であった方が親、子の心の安定に繋がる。ではどのような家族形態がより親密な家族関係を築いてゆくことができるだろうか。親密な親子関係を築いてゆくにあたって親と子供が初めてつながりを持つ養育期間におけるアタッチメント形成について以下に示す。



アタッチメント形成理論の発端。

このアタッチメント形成についての研究の発端は、第二次世界大戦後WHOの依頼を受けたBowlbyによって行われた戦争孤児に関する体系的調査である。この調査より、Bowlbyはいわゆる「母性的養育の剥奪」と言う概念を世に問うた。この「母性的養育の剥奪」とは「乳幼児期に、特定の母親的な存在による世話や養育が十分に施されないと、子供の心身発達の様々な側面に深刻な遅延や歪曲が生じ、なおかつ後々まで長期的な影響が及ぶという考え」である。

アタッチメント形成とは?

アタッチメントを日本語に直すと「愛着」である。子供が親を愛し、親が子を愛すると言う当たり前のような概念は近年の親殺し事件、虐待事件の増加により相対化してきた。アタッチメント形成論の提唱者であるBowlbyによるとアタッチメントを「愛着」と定義するのではなく、「危機的な状況に際して。あるいは潜在的な危機に備えて、特定の対象との近接を求め、またこれを維持しようとする個体(人間やその他の動物)の傾性」と定義した。
つまり、自らの生命を守ってゆこうとする幼児はお腹がすいたら泣いたり、自分の身の安全を守るために親と信頼関係を築こうとすることである。
さらに、人間はこのアタッチメント形成に関して他の生物種にはない、ある種のハンディキャプを本質的に抱えているといえる。系統発生的に見たときに、人間は本来ならば「離巣性(母親の胎内に長く止まり十分に成熟した後で、ある程度の完成体としてこの世に誕生し、その後比較的早い段階から親に依存することなく、自律的に生活し得る特性)」の特質を備えていてもおかしくない種だといわれている。しかし人間の乳児は明らかにそれに反するものであり、むしろ母親の胎児で十分に成熟しないままに生誕し、その後も長く親へ依存状態を続けざるを終えない。当然、自分の方から特定他者に対して近接し、独力でアタッチメント関係を築くということができない。養育者をはじめとする周囲の大人の方から近づいてもらえなければ、それはいかなる意味でも成り立ち得ないものであるといっても過言ではない。しかし、幼児の方から周囲の人々を自分に引き寄せ、自身との相互作用に引き込むためのいくつかの重要な基本的メカニズムが備わっているのである。
このように未発達のまま生まれてきた子供は誰かに頼ろうとするという理由でアタッチメントを他者に求める。しかし、アタッチメントが形成される時に虐待を受けてしまうと自らの生命を最も信頼する存在に脅かされてしまい「自己肯定力」「他者への共感能力」というものを築きにくくなるのである。このような理由で幼児虐待は行ってはならないのである。


母子共生

 子どもは母親のお腹の中から生まれてくる。それまでは、親とほとんど同じ脈であったり体温が同じであったりする。このような中で育ち未熟なままで生まれてきた子どもは特に0〜7ヶ月の間、自分と母親の存在をほぼ同一化して考えるという。
このようにほとんど一体化している存在に養育してもらうことはその後の人間関係をし易くするのに重要である。なぜならば、自分と一体化している存在以外に育てられることは不安を生みまるで捨て子のごとく子供は感じてしまうからである。つまり、実の母親が養育することはより子供の安心を生み出すのである。例えば、母親が主に養育を行っている家庭での調査では、0〜7ヶ月以内において親とアタッチメント形成期をともに過ごす時間が比較的に少なかった子供は親に対して無関心をしめす等のデータが出ている。
アタッチメント形成に関して7ヶ月以降という時期において子供は、自己と他人との違いを認識することができるようになる。そして自分の信頼している者(親やよく関わっている者)に対してはその存在を歓迎し反対に、見知らぬ人に対しては警戒心を持つ。他者との関係というものがその人の人格他者への共感能力を作ってゆくため子供に多様な人との関わりをわれわれは望む。しかし、見知らぬ他者との関わりは幼児にとって初めての体験でありその恐怖、苦痛から警戒を持って他者と関わりを持とうとはしない。この時、自分がより安心して関わって行ける存在を持っていることは自分が知らない人と関わってゆくときのリスクヘッジとして働く。ゆえに、幼児が他者との違いを見つける7ヶ月より前においてより信頼できる存在を作ってゆくことは重要なので0〜7ヶ月という時期は母親が養育を担ったほうがよいのである。

結び。

以上のように、幼児を養育してゆくに当たって母親は特に0〜7ヶ月の間は重要な役目を担っていることが分かった。では、アタッチメント期間で重要な母子共生の時期である0〜7ヶ月においての養育機関が終わったら育児というものは家族が担う必要は必ずしもなくなってしまうのであろうか?私はそうは思わない。
なぜならば、人が他人と関わって行くのにおいて家族という共同体が親密な人間関係が創造される場である必要があるからである。価値観違う他者との関わりが苦痛である以上そのリスクヘッジとして、家族の親密さが必要である。そのためにはどうすればよいか、それは家族の中でできるだけ養育を行い子供を育てる責任を果たすことにある。唯一子どもを育ててゆく責任(経済的責任や道義的責任)が必然的にあるべき共同体は家族である。さらに生まれたての子供は誰かに頼らざるを得ない状況があり、逆に愛する人との間にできた子供は愛しやすいという状況が存在する共同体は家族だけなのである。よって子供を育てるという責任を果たし、多くの経験を共にすることで家族の繋がりというものを深くしてゆくべきと考える。ここで考える理想の家族像はこれまであった近代家族では必ずしもない。家事を母親が行い、父親が仕事を行う。この正当性は、崩れかけている。これまで、経済の要請から父親が働くほうが有効ではあったが現在は必ずしもそうとはいえない。しかしどちらかが育児の大部分を担い、仕事の大部分を担ったほうがよいという事実も存在する。よって、0〜7ヶ月以降は必ずしも母親が育児を全面的に負う必要はなく家族内で分担したり、またどちらか一方が担う育児機能の補助を地域が行うべきであると考える。いずれにせよ子供を育てる責任というものを家族の中で果たしてゆくことによって、その後の親密な家族関係を構築してゆくべきなのである。


このコンテンツは連載形式です。連載一覧は、こちらへ→http://www.yu-ben.com/2006zenki/contents/top%20page%20all%20members.html早稲田大学雄弁会HP内)