「曙光」 文学部二年 杉田純

つい先日、元プロ野球選手の清原和博氏が覚せい剤の所持・使用で有罪判決を受けたというニュースが流れた。私自身、プロ野球が好きなことや元巨人ファンであることもあって、世間同様私も清原氏に関連するニュースには注目してきた。当然、彼に対する世間の目は厳しい。少しネットニュース等をあされば、やれ「40代の薬物再犯率は○○%」だの、「清原は薬物を本当に断ち切れるのか」だの(「」内の見出しのような文章はあくまでこういったニュアンスであるということを示すだけのもので、実際の見出し文を引用しているわけではない)、清原氏の再犯、復帰失敗を疑う声も決して少なくない。
まあ、社会的に逸脱した者に対してやたらと批判の矛先を向けるのはマスコミと世論の十八番なので、それ自体は大して気にならない。しかし、各報道の中で私の目を引きつけたものが1つあった。もっとも、それは大して大きく取り扱われてはいなかった記憶があるが。その内容は、「名球会清原氏を除名しないことを明言した」というものであった。

 名球会とは、プロ野球界で通算200勝や250セーブ、2000本安打などを達成した者だけが入ることができる組織である。つまり、限られた人間しかなれないプロ野球選手の中でも特にずばぬけた人でなければ入れないという、とんでもない組織である。この名球会に、現役時代に輝かしい成績を残した清原氏も参加していた。
 さて、ここで話を戻そう。世間の注目度、社会への影響が大きいプロ野球選手やそのOBが薬物などの犯罪に手を染めていたことが露見した場合、かなり大きな制裁を受けることは珍しくない。読売巨人軍の現役若手投手数名が野球賭博に加担したことで球団を除名になったことは記憶に新しい。それだけでなく、過去にも野球賭博八百長、薬物などで処分を受けた選手、OBの例は多々ある。その中には球界からの永久追放などの大変重いものも含まれている。はっきり言って清原氏名球会からの除名などを受けても全くおかしくなかったのではないかと思う。

 しかし、その清原を名球会は除名しない、つまり、「受け容れる」と判断したのである。これは非常に大きいことである。

 というのも、おそらく現在の清原氏には居場所、受け容れてくれる人間が必要であろうからである。これはよく言われるような「薬物を断つには周囲の支えが不可欠である」という理由に留まらない。

 人間の社会には、何かしらのかたちで「排除」が常に存在している。我々雄弁会員が扱う問題意識にも、「排除」が関係する場合が少なくない。それだけ多くの社会問題には「排除」がつきまとっているのである。いじめや児童虐待、民族差別などは「排除」が関わる問題意識のわかりやすい例であろう。貧困や精神疾患なども一見そうは見えないが「排除」を招くものである。
 そして、「排除」の構造はなかなか複雑なものである。例えば児童虐待を考えてみよう。先ほど私が「わかりやすい」例としてこれを取り上げたのは、「児童虐待」といえば誰でもすぐに「親がわが子を痛めつけている→子どもが家族から排除されている」イメージができるからである。だが、実はそれだけではない。例えば虐待に及ぶ親は近所から孤立していることがよくある。この場合、「親が近所から排除されている」といえる。また、虐待をされて育った者が自分の子どもに虐待をする、ということもやく言われる。ここからも「親がかつて自分の親から虐待されていた→親もかつて家族から排除されていた」という、排除の構造が浮かび上がってくる。

 この例から見えてくること、それは、「排除が更なる排除を生み出している」ということである。これが「排除」の構造である。多くの場合、「排除」は人を苦しめる。良識のある人間であれば、「排除」に苦しむ人を見れば、程度の差はあれ「かわいそう」くらいの感情は抱く。少し正義感が強めの人なら「助けたい」或いは「助けよう」と思うかもしれない。
 雄弁会員も同じように「排除」による人の苦しみ、そこにある不条理に否定的な感情を覚えるからこそ、問題意識を抱き、研究・演練活動を通じてその解決を図っているわけである。

 そして、「排除」に纏わる社会事象を語るにあたって、多くの者はこう言う―排除に苦しむ者を受容しなければならない―と。受け皿が必要だと言う者もいる。対話が必要だと言う者もいる。機会を与える必要があると言う者もいる。人によって問題意識は異なるのだから、当然訴えることも異なるものになる。しかし、往々にして「排除」に纏わる問題意識に対する解決策、ないしは解決の方向性として語られるものの根底には、「受容」がある。
別にこれ自体は間違っているとは全く思わないし、批判するつもりもない。むしろ、然るべきことであると思う。それは私とていじめ等を問題意識として活動した時期もあるのだから、同じようにしてきた。「排除」に苦しむ者は必ず「受容」されることを望んでいる。

少々雄弁会に限った話に聞こえてしまうような書き方になったが、これは一般社会にも当てはまることである。政治家も新聞記者もコメンテーターも学者も「排除」を糾弾する者はどこかで「受容」を訴えている。

何度も言うが、「排除」を無くして「受容」をする、と訴えることは正しい。しかし、これは典型的な「言うは易く行うは難し」に当てはまるものなのである。

これもある意味当然のことである。例えば、犯罪歴がある人が社会復帰した後も就職などで差別されてしまうのも「排除」である。ここにおいては就職活動の待遇改善などが「受容」の一例として挙げられよう。では雇う立場にいる人間としては、どうだろう。本気で「受容」をしようと思ったら、そこには大きいリスクと葛藤が伴うことになる。もし何か起きたら誰の責任になるのか?信用していいのか?自分たちに不利益にならないか?
要するに、「排除」されてきた者、「排除」に値すると社会や人々にみなされてしまった者を簡単に「受容」すると、受容した者(或いは組織)までもが「排除」にあう恐れがあるのである。仮にあるプロ野球チームが犯罪歴のある選手を入団させたらそれだけでそのチームが後ろ指を指されるであろうことは想像に難くない。その選手が再犯に及ぼうものならそれこそとんでもない事態になるだろう。
「受容」はそれだけ当然のことでありながら、非常に実現が難しいものなのである。

さて、ようやく話が清原氏の件に戻るが、だからこそ私は名球会の判断は「英断」であると思う。残念ながら清原氏プロ野球の信用を失墜させた人物である。それは間違いない。しかし、マスコミ、世論、球界、ファンからの大バッシングで最も苦しんでいるのは清原氏であることもまた事実である。間違いなく清原氏は今、「排除」されている。彼が救われるため、何らかのかたちで「受容」が必要である。

その清原氏を、名球会は「受け容れる」と言い切ったのである。万が一清原氏が復帰に失敗すれば、プロ野球の信用は更に下がるであろう。もしかしたら、名球会の中にも葛藤があった、もしくは今でもあるのかもしれない。それでもなお、清原氏を信用し、「受け容れる」のである。多くの人が必要と思いながらも踏み切れなかったその選択を、名球会はした。清原氏を批判する多くの記事の中に、そのたいして大きく取り上げられていない「英断」を目にしたとき、私は社会が一歩だけ良い方向に進んだことを感じた。批判という暗闇の中に夜明けの光―曙光―が見えたのである。曙光とは、わずかに見える希望のきざし、という意味もある。名球会の「英断」は清原氏にとっても、そして、社会にとっても、希望の光であると感じた。