「陽のあたる坂道」問題提起――「仄暗い場所から」

教育学部2年 岩本慧

われわれの生きる日本社会はどのような状態にあるか。個々人の多様な価値観・ライフスタイルが受容されうる成熟化社会の様相を呈しているといえる。戦後の日本社会は、企業・行政・経済・教育・人々の意識や価値観まで、あらゆる面において経済や人口規模の拡大ないし成長を前提にして編成され、またそうした目標に向かって邁進してきた。しかし、そうしたパラダイムは経済成長による「パイの拡大」が当然の状況であった時代はよかったのかもしれない。
経済が構造的な低成長期に入り、かつ意識や価値観が多様化した現在においては、個人のリスクを緩衝するあり方も変容している。例えば、ジェンダー分業制度が支えていた再生産労働などがあるが、それが崩れて従来の核家族制度も変容して家事労働の形態も変化した。加えて、地域社会においても地縁的関係による相互互助機能も低下し、わが国の雇用慣行も終身雇用制から変化した。このことはつまり、家族・地域・企業など中間共同体によって個人の生活におけるさまざまなリスクを分かち合うシステムもその機能を低下させているということがいえる。すなわち、現代社会においては、個人の行為・選択の多様性はほぼ受容されるものの、個人の行為の個人の行為における自律性が同時に高まったことから、自己責任という言葉が象徴するように生活におけるリスクが個人に帰せられるのである。
同時に、少子高齢社会が本格的に到来している社会でもあるために、増加する高齢世代と反比例する形で福祉の担い手となる若年世代の負担が極めて増大していく潮流にある。5人に1人が65歳以上の高齢者という、まさに超高齢社会ともいうべき社会でもある。

このような社会潮流の下に、老齢加算の廃止や介護保険法改正、後期高齢者医療制度の導入――といった、この端的な例とする生活におけるリスクが若年世代よりも大きい高齢者などの経済的希少性が低い人々の最低限の生のセキュリティの弱体化や、ワーキングプアなど年収150万円以下の労働者が雇用者の24%を占める現状がある。また個々人の行為の自律性の高まりは、親密圏のような人称性をもった関係から切断された個人が孤独に陥る事象をも顕在化させている。具体的には高齢者の社会的孤立状態や、承認を得ることができず自死を選択してしまうというような孤独に死を遂げてしまうことが、端的な例として挙げられるだろう。

 では、どのような社会が構想されうるか。先述の通り戦後のわが国は経済や人口規模の「拡大」ないし「成長」がメルクマールとなっていたが、昨今の少子高齢化の進行という人口減少、資源・環境制約の顕在化という要因がある。また、経済がパイの拡大を前提とし、その分配を行うという構造は誰かの所得が上がれば誰かの所得が下がるというある種のゼロサムゲームの図式を内包している。先のような理由からいずれはそのパラダイムにも限界が生じてしまう。世界人口が急激な増加を見せ、かつ新興国の成長がもたらす資源消費が増大の一途を辿る現状、また現在では先進国において顕著な高齢化の急速な進行は、人口定常化という言葉に収斂される。人口定常化が意味するところは労働力の供給の低下であり、高齢化が高度に進行し、人口や資源消費も均衡化している現代を鑑みて、今後望ましい経済社会の姿とは持続可能な形態に舵を切っていくべきではなかろうか。

本コンテンツ「陽のあたる坂道」では、われわれが生きる社会が、皆に遍く恵みの陽光があたるものへとなるべく、発信を行っていく。次は、問題の構造を明らかにしていく。