「感謝」文化構想学部三年 酒井颯太

卒業、そして入学、入社。
別れと出会いが入り混じる季節となった。春というのは一年で最も特別な季節となりやすい。ある人は別れを惜しみ、ある人は新たな出会いに心を躍らす。そんな季節だ。
別れを前にするとき、人は今の状態がずっと続けばいいのにと思う。小中学の頃、4月のクラス替えを前にして、今のままのメンバーがいいのに・・と思うことがよくあった。仲のいい友達同士で、こいつらとずっといられたらいいのに、なんて思ったりもしたものだ。いくつになっても私たちはこの季節に、切なさとそれより少し小さめの期待を抱く。
春。それが私たちにもたらすものはなんだろう。
それは、所属する社会の移行だ。春以外の季節でも別れと出会いは生じる。だが、自分の所属する社会がごっそり変わるのは大抵春である。所属する社会が変わることは、単なる出会いや別れとは大きく異なる。それはまるで、世界が変わるかのように感じることさえあるものだ。母親のもとから離れず、幼稚園のバスに乗りたがらない子供は何を恐れているのだろう。それは家庭という社会から、見ず知らずの子供たちと生活する幼稚園という社会への移行だ。彼らにとって家庭という社会は、それまで世界そのものであった。それが突然否定され、新たな世界へと投げ込まれるのである。それは恐怖でしかないだろう。
ではなぜ社会の移行は恐怖となるのか。それは誰もが、「おのれ」に向き合わざるを得なくなるからである。「おのれ」に向き合うとはどういうことだろう。ハイデガーは私たち人間を「現にそこに存在しているもの」という意味で「現存在」と名付けた。そして現存在である私たちは常に「世間」に目を向けることで、おのれの「死」から目をそらし続けていると言った。ここにおける「世間」とは、いわば所属する社会である。そして「死」とはおのれの有限性である。私たちは社会に属することで、どこか自分自身の限界を感じることから逃げているのだ。
進学や就活を前にすると、周りの大人は言ってくる。「君は何がしたいんだ?」。これほど困る質問はない。それまで高校生や大学生として、部活や勉強に没頭してきたのに、急に「おまえは何者だ?」と言われるようなものである。「私は高校生です。」それまではこう答えればよかった。それなのにいつの間にか、「君はもう高校生じゃなくなるんだよ。」と言われる。
「どうして野球をしているの?」「野球部だからです。」
「どうして野球部に入っているの?」「野球が好きだからです。」
それまではこれでよかった。なぜか。それは「学校」そして、「野球部」という社会に属していたからだ。なぜ野球をやっているのか。社会はこの漠然としすぎて難解な問いに、言い訳を与えてくれる。
だが、進学や就活となったら話は別だ。そこには、守ってくれる社会は存在しない。
「なぜこの会社を希望した?」「好きだからです。」
この理由が通用するほど世の中は優しくない。そこで私たちは初めて、おのれの存在に向き合うのだ。今まで自分は何をしてきたのだろう。この仕事を一生続けていいのだろうか。私って何者だ?と。そして、自分の限界と対面する。「この点数じゃ、あの大学にはいけない。」「このままじゃ、やりたい仕事をできない。」と。有限性の自覚。死の存在はそれの究極といっていいだろう。それはとても怖いことだ。不安で目の前が真っ暗になる。だから私たちは目を背ける。なにも考えないようにする。だが、世間へと目を背けて、おのれを見つめないことはなにもおかしなことではない。むしろ最も人間らしい行為といっても過言ではないだろう。現にハイデガーも、それこそが人間の特徴だと言っている。しかし私たちはいつまでも、それから目を背けることはできない。社会は移り変わるからだ。進化論の言う通り、生物に現状維持は存在しない。あるのは進化か退化だけ。どれだけもがいたところで、やはり私たちは自らの抱える存在の重さから逃げることはできないのだ。
話をもとに戻そう。私は春が好きだ。だが一方で春に恐怖を感じることもある。なぜなら春は「おのれ」を見つめざるを得ない季節だからだ。でも、それを超えない先に進化はない。「おのれ」を見つめないものは、社会に任せて、退化していくのみだ。社会は気づかないうちにゆっくりと変わっていく。そしていつのまにか、「おのれ」を見つめないものを置き去りにしていく。みんなそんなこと薄々分かっているのかもしれない。だが、実際に行動することは難しい。何度も何度も自分の限界に向き合わなければならないからだ。ちなみに、社会の移行の例として、就活や受験を上げてきたが、これらも所属する社会においてそれらが当たり前のものだった場合、そうでない社会に属する人に比べて、おのれを見つめることは少なくなるだろう。
「あなた何やってるの?」「就活です。」
「どうして?」「四年生なんで。」
こんな会話は聞き飽きた。結局彼らは真に「おのれ」に向き合っていないのだ。
社会とは大きな船のようなものである。そこの乗組員になればオールを漕ぐ程度で、自分で海を泳ぐ必要はなくなる。ひとりで海を泳いでいるとき、そんな船を見ると、ついついうらやましく感じる。だが、どちらがその時に泳ぐ力があるかは明白だ。勘違いしないでほしいのは、古くなった船を捨てて、別の船にのっただけで進化していると思い込むことである。新しくて速い船に乗りかえたって、本人の泳ぐ力は変わっていない。そして一見その船に距離を離されるように見えても、それは気にすることではないだろう。もちろん船に乗っても己に向き合い、船を思いのままに動かす人は多くいる。まぁ、衣食住そろった船で頑張る人と、海で泳ぎ続ける人。どちらの方が力がつくかは、読む人の判断に任せよう・・。でも、どちらにせよ大事なのはおのれの限界と向き合い、常に戦い続けることなのだ。
少し長くなったが、この記事を見ている人のなかには、新たなスタートを切ったばかりの人もたくさんいるだろう。私から一つだけアドバイスを送らせてもらえるのならば、それは、「感謝を忘れるな」ということに尽きる。「感謝」とは何だろうか?これは意外に難しい質問だ。「ありがたく思う心」じゃ答えになっていない。私の思う答えは「有限性の自覚」である。私が考えるに、小さい頃からうるさく言われてきた「感謝をしなさい」は、「おのれを見つめなさい」ということだったのだ。食事前のいただきますも、何かしてもらったときの「ありがとう」も。すべては一人じゃそれにありつけなかった、おのれの限界を改めて自覚するための一言だったのだ。だからぜひ、おのれに向き合うためには「感謝」を忘れないでほしい。かく言う私自身も、ついつい忘れてしまう「当たり前の有限性」をもっと意識しなければならないと思う。まぁ、口だけなら誰でも言えるので、ちゃんと意識をすることを忘れないでおこう。(今の生活に感謝しているとか言いつつ、次の日の朝授業にいけない人間を私は嫌というほど見てきた・・)。

ここまでだいぶ長くなってしまった。どうしてこれ程ダラダラと書いてしまったのかは、いろいろ事情があるのだが、とにかく世間に流されず、おのれを見つめることの大切さを自分自身に対しても含めて言っておきたかったのだ。
最後になったがぜひこれを読んだ新入生がいたら、おのれと向き合うことにひたむきになれる我が早稲田大学雄弁会の門を叩いてほしい。雄弁会も一つの社会であることには限りないが、このサークルは恐らく早稲田で最も「おのれそのもの」を問うてくるサークルだ。だからこそ、必ず後悔させることはないとここに誓おう。
では、そろそろ筆をおこうと思う。
長文失礼した。