"D&S" 社会科学部4年 王威

初めてテレビで見た弁論大会は私たちの学生弁論大会ではなく、外国人弁論大会でした。観客席がほぼ全部埋められて、審査員は7人もいて、地上波での放送も許された。学生弁論大会にはありえない人気ぶりでした、実にうらやまし。
二時間のテレビ番組で、19人の外国人弁士が出場した。私たちが普段やっている弁論大会とは違うもので、弁論時間が4分程度で、やじもなく、聴衆質問もなかった。テーマとしても、日本で住んでいる外国人の視点からみた日本の文化や生活に関しての体験談や考え方などが多く、そこで、政治性や学術性もなく、大学間の競争もない。穏やかな雰囲気の中で、「期待する」も「お疲れ」もなく、ひとりひとりの弁士が登壇して、弁論して、拍手に見守りながら降壇した。弁士たちがカタコトの日本語で、何度も噛みながらも、必死に自分の考え方を伝えようとした。
数人の弁論を聴き終えた後、思い浮かんだのは、もし、自分も留学生としてこの大会に出場したら、絶対優勝できるだろう。日本語力も発音も表現力も演練技法も、今までネイティブの弁士たちと共に競い合い、成長してきた私なら絶対勝てるはず。そう思っていた。
大会が中盤となると、弁論のパターンが見えるようになった。「日本語の人称が複雑で、ややこしい、でもそれも日本人の他人への思いやりの気持ちがあるからと悟り、人称の勉強も頑張ろうと思った。」、「日本で規則が多くで面倒くさい、でもそれも日本人の真面目な性格で、日本の素晴らしさでもある。」。彼らの弁論には「問題意識」と言うものが存在しない。仮に存在しでも、「それは実際問題ではない」と言う結論に至った。「日本人は西洋文化に媚び過ぎる」ことを問題視している、結局の結論は「包容力も日本素晴らしい文化の一部である」となった。19人の弁士の中、日本社会に問題意識を抱く人は一人もいなかった。
それはそうだろう、四五分の中、一つのまとめるのはネイティブにとっても相当難しい。そもそも、外国人から見た日本の問題など、日本社会においては期待されているものではない。期待されているのは、日本の素晴らし文化を必死に理解しようとして、日本社会に溶け込もうとする外国人たちの姿である。あのカタコトの日本語もこの大会で求められているものでした。このような外国人弁論大会に出たとしても、私は勝てないだろう。
余程の学者や社会活動家ではない限り、「日本社会のこういうところが問題である」、「こう解決すべきだ」、を言う外国人に対して、「貴方は日本実情をわかっているか」、「余計なお世話だ」、のような感情が沸くだろう。一方、「日本が素晴らしい」、「日本人が優しい」、のような言葉は、外国人が言う時が最も嬉しくて、且つ説得力があるだろう。弁論大会の観客たちも、テレビの前の視聴者も、このようなものを望んで、見ているの。単純な需要と供給である。
本来、外国人の視点から、自分の文化と社会を振り向くことこそがこのような大会の意味のではないか。しかし、その声が一斉の賛美になった時は、それは単なる観客を媚びる娯楽となる。媚びることを否定するつもりはない、業者は顧客に媚びる、政治家が有権者に媚びる、弁士が観客と審査員に媚びる。これも単純な需要と供給である。
少なくとも、外国人弁論大会は需要を満たす役割を果たした。では、観客が、社会が私達の弁論大会に何を求めているのだろう?学生としての視点か、若者としてのエネルギーか?わからない、求めているかもしれない、「未熟だ!若造の意見などいらない!」、と言う声もあるかもしれない。社会の需要は何か、私達が供給できるのは何か、わからない。
まだ、Steve Jobs曰くcustomers don't know what they want until we've shown them. 顧客たちは自分が何かを欲しかっているのが知らない、私達が示してあげるまで。