「劣等」 商学部一年 堀川友良

雄弁会で活動することとなって半年以上になる。光陰矢の如しとはよく言ったもので、ここまでの雄弁会生活はまさにあっという間であった。あと数か月で一年を迎えると思うと感慨深いものがある。
振り返れば楽しい合宿や研究の面白さ、そして充実した弁論作成のことが昨日のように思い出される。酷寒の冬が終わり、雪が解け並木道に葉が茂るころには新入会員が入ってくることを考えると、これらの魅力について述べるべきなのかもしれない。
しかし、ここはコラムである。コラムでは読者が知りたいことではなく、私が述べたいことを述べても良いはずである。ただ、欲を言えば私の述べたいことが読者諸兄に寄与するものであってほしいとは願ってやまない。

雄弁会に入ってすぐ、私は今まで考えてこなかったことが多くあったことに気が付いた。自分にとっての重要な概念や理想とする事柄に対して。そして自らがそれらを人に伝える努力を怠っていたこと、伝える術を手に入れる努力を怠っていたことに。
恥ずかしながら自分が井の中の蛙であったことに気付いたのである。諸先輩方との論理力や知見の差はもちろん、同期に対しても多くの点で劣等感を強く抱いた。全く同じ人生ではないにしても生きてきた年数にそれほどの違いはないはずだ。それなのに自分は何故こんなにもできないんだろう。と。
私は多くの面で他の雄弁会員に劣っていると感じたのである。自らが劣っていると認識することはすぐにできた。それは彼我の活動の差を考えれば自分にとっては明らかに感じられたのだ。しかし、この感情を受けいれることはできなかった。雄弁会活動は充実した活動であるが同時に常に苦しかったし、つらかった。
雄弁会入会前の私は、自分の「話す」技術に自信があった。父も兄も母も話すのが上手く、その家族の一員である自分も当然話すことがうまいと信じていたからだ。だから弁論に関しては絶対の自信があった。実際、私は弁論の才能がないわけではなかった。自らの感情を演台で表現することに長けていた。大会で結果を残すこともできた。もちろん弁論を行ったのは自分がなんとか解決したい事象があったからだ。どうしようもないと嘆く人々の一助になれればと考えたからだ。しかし、その結果に満足感を覚えていたことは否定できない。前期の弁論大会が終わったその日、私は強い満足感、達成感を抱いていた。
しかし、それらの満足感や達成感は私の劣等感を埋めてはくれなかった。

雄弁会に入会を少しでも考えている諸兄に私が個人的に伝えたいことはこうである。
雄弁会の会員は優秀である。しかし、雄弁会で得ることが期待できるのは敗北の記憶ばかりである。挫折する経験ばかりである。苦しい経験ばかりである。つらい経験ばかりである。ただし、それらは全て分かたれたものなのだ。それぞれは別のことなのだ。私が覚えた満足感や達成感は私の心にある劣等感を解消してくれなかった。だが、それは当然のことである。満足したら、苦しんでいる事柄が消えるわけではない。苦しんだ過去が消えるわけでもない。成功体験によって失敗体験を新たな形に塗り替えられると論ずる弁士は多い。一面的には確かにそうなのかもしれない。だが、私は必ずしもそうであるとは思わない。それらは分かたれており、それぞれに価値を、意味を持っているからだ。それを決めるのは自分である。
アドラー曰く「劣等コンプレックス」と「劣等感」は区別すべきであると言う。「劣等コンプレックス」は自己と自己の理想との乖離の中で生まれるものであり、「劣等感」は他者との比較の中で生まれるものであるからだそうだ。また、「劣等コンプレックス」は後ろ向きだが「劣等感」は自らを前進させるための起爆剤であるという。自らがこうありたい、こうなりたいと願い行動することが自らの成長につながるのだ、と。しかし、私はその根幹は同じであると思う。雄弁会員に対する私の劣等感はアドラーの説くところの「劣等コンプレックス」であると同時に「劣等感」でもあるのだ。私は他の雄弁会員に嫉妬した。だからこそ前に進めるのだ。
「こいつのようになりたい」「俺もこれができるようになりたい」
この気持ちは私の劣等感の出発点だ。
「なんで俺にこれができないんだ」「あいつはあんなに簡単にできているのに」
これらの気持ちを同時に抱えるから辛くなるのである。苦しいのである。
しかし、だからこそもがくのである。私は懸命にもがいて、もがいて、もがきぬくことで前に進んでいるのだ。私はまだまだ未熟だが前に進むことは放棄していない。諦めていないのである。
これは私の苦しみである。度々、私の劣等感は私を雄弁会活動から遠ざけようとした。自分が傷つかないように、さまざまな理由で着飾って雄弁会活動から距離を取ろうとしたこともある。だからこそ知ってほしいのである。それに屈すれば前進はない。しかし、立ち上がればそれにさらに苦しめられる。屈して横たわっていた方が楽なのかもしれない。そこには多くの葛藤があるだろう。そこには十人いれば十人の答えがあるだろう。その中の一つである、私の答えは「それでも立ち上がり、駆け出さないといけない」である。ありきたりな答えだと思うかもしれない。だが、葛藤の中にあるものは誰かに理解してほしいと思っているのではないだろうか。これを実行したものが実際に一人でもいると思えれば私だったら気が楽になったと思えたのではないだろうか。そのように考えればこそここに記すのである。私の答えを誰彼構わず押し付けたいなどとは思っていない。しかし、「私の答えがこうだった」と伝えたかった。この苦しみを抱えた人に少なくとも私はこうだったのだと伝えたかったのである。ありふれた答えなのだろうがここに自分の思いを刻んでおきたかったのである。
徒然に筆を走らせこのようにキーボードをはじいてしまっているが、無自覚に新入生のためのコラムになっているのかもしれない。冒頭に新入生のためのコラムではないと記したが訂正させていただこう。私にとって、いや、新入会員だった私にとって最も大きな壁がそれだったのである。新入会員の中でもそれに苦悩するものは少なくないと思う。だからこそ新入会員がどんな選択をとるにせよ、同じ壁に相対した者として力になりたいと思うし、後悔してほしくないと願うのである。
しかし、それも新入会員が入ってこなければ発生しない事象である。このコラムの後に続くコラムでも新入会員に触れることがあるかもしれないが、一足先に伝えたいのが少しでも迷ったらとりあえず新歓コンパには来てほしいということである。