「嫉妬」 商学部一年 堀川友良

総会の時期には東京大学京都大学の入試合格発表があるだろう。そして、東北大学一橋大学などの国公立大学の結果も出ているだろう。私の母校埼玉県立浦和高校は浪人が多いことで有名である。それゆえ高校時代の多くの同級生が今年も受験に臨むだろう。冒頭の大学を受験する友人も多い。ツイッターなどで友人が東京大学に受かったなどとつぶやいているのをみたら、この一年間を頑張ってきたものがこの一文に込められているのだなあと感慨深い気持ちになるであろう。そしてそれと同時に嫉妬というか後悔にも等しい感情があるはずである。去年もそうであった。正確には羨望であろうか。浪人してでも行こうと思える大学に一年努力して受かったということも加わって羨ましさはさらに高まっているだろう。
さて、半分以上の早大生は早稲田大学の一般入試を通ってきているだろう。その中には国立大学や他の私立大学に落ちてきた人も多いだろう。かく言う我が雄弁会の同期には国立大学落ちが多い。私は東京学芸大学に合格し、熟考の末早稲田大学を選択したがそれでも東大を受けていたら、一年頑張って勉強していたら、と考えることは多い。受験で大学側から拒まれたならばなおさらそのような思いもあるだろう。来年度新歓期にやってくる一年生にもそのような人は多いであろうなあと想像する。雄弁会の出身者は冒頭の大学に勝るとも劣らないOBが多く、厳しい中にも自らの成長を自覚できる場だからである。それは嫉妬から生まれる力である。嫉妬の力は自らもこうなりたい、ああなりたいというビジョンが明確である限り、努力できるのである。
ただ、ここでしっかり述べておきたいのはただその嫉妬とは受験だけに限らない。我々の周囲には多くの長所を持つ人がいる。それが露骨に表れるのが学問的知識である。学問的知識とはすなわち受験で問われる資質である。つまり大学や高校の偏差値で測ることができるのである。もしすべての人の頭の上に体力量が出ていれば体力量がそれの代わりになりうるだろう。数値にできなくても比較できる部分が我々には存在しているのである。もし、我々がそれから逃れようとするなら軸を作らなければならない。相対化して考えるからそのような感情が生まれるのである。すなわち自らを誰かと比べなければよいのである。自らは生きているだけで素晴らしいのである。ただ、それは容易なことではない。自らの軸は作りがたいからである。それができれば全く苦労しない。
そのために自らの軸を作れる場所こそが雄弁会なのである。軸を与えてくれるサークルは多くある。しかし、自らだけの軸を雄弁会では作れるのである。本来的には自らの軸は自らの中にしかない。他のコラムに世界が混とんとしており寄る辺がないと述べる会員がいたが、寄る辺を自分に求めればよいのである。
とにかく、ここで述べたいのは以下である。
「皆、雄弁会に入ってくれ」