「それでも生きるために」 法学部三年 野村宇宙
生の意味について考えたことがあるだろうか。
我々はどこから来て、何者で、どこへ行くのだろうかと。きっと、誰しも一度は苦しめられた問いだろう。
自分は何のために生きているのだろうか。人間の生には一体何の意味があるのだろうか。この問いに対してそれなりに納得のいく答えは、恐らく自分で何とか見つけるしかない。
しかし、生の意味を見出し、それを信じ続けることは難しい。何故なら、この社会は困難と不条理、不確かさに満ちているからだ。貧困、格差、紛争、民族弾圧…。世界にはびこる不条理は、人間の生に与えられた価値を嘲笑い続けている。社会問題に苦しむ人々だけではない。そもそもこの世に、悩みや不満のない人間などいない。たとえ今幸せでも、10年後20年後も笑っていられるとは限らない。この世界ではあらゆるものが不確かだからだ。
きっと、この漠然とした不安は「存在論的不安」である。自らの存在が何によって確かであり、今後も確かであり続けるのかが分からない。だからこそ、生に希望を見出せない。意味を見出せない。たとえ希望を見出していたとしても、それは一時的なものに過ぎない。
そんな存在論的不安を抱えた人間の行き着く先こそ、「ニヒリズム(虚無主義)」である。無意味な生が永遠に。それはただ死んでいないだけの生であり、幸福な生とはまるで対極にある。
では、そうしたニヒリズムを克服するにはどうすればよいのだろうか。
この残酷な世界で、それでも自分は存在していていいと断言してくれるもの。自らの生に意味を、希望を与えてくれるもの。そんな「拠り所」が必要なのではないだろうか。人が生きる上で拠って立つ基盤、心の故郷が。
実際、世界を見渡すと多くの人々は自らの拠り所を求めている。その典型的なものが宗教である。人類の長い歴史を振り返っても、宗教のない時代はないと言って過言ではない。世俗の時代と言われる現代ですら、何らかの宗教を信じていることが世界の常識である。
「宗教」は拠り所として説明がしやすいので例にとったが、無神論者の多くも何らかの哲学や思想、人生観を信じている人がほとんどだと思う。拠り所を国家や地域などの共同体に求める人も存在するが、それは共同体の「物語」を信じているという点で広義の信仰だろう。「拠り所を外的なものに求めず、自分は自分の美学に従って生きる」という人も、やはり自分の美学を信奉しているとも言える。これらの事実は、人が拠り所を求める生き物だということを物語っている。
その上で、「何を拠り所とするか」が非常に重要だと思う。何故なら、拠り所はその人の考え方や、それに基づく行動を大きく左右するからだ。拠り所は規範性を帯びており、それを信じる者の内面に内的規範を打ち立てる(これは宗教をイメージすると分かりやすいだろう)。信仰心が強ければ強いほど、その信者は内的規範に従順な行動をとるようになる。これは、可能性とリスクの両方を秘めている。「正しい教えを広めるためには殺人をも厭うな」とする教えを忠実に守った者が聖戦に喜び勇んで参加することもあれば、「汝の隣人を愛せよ」という教えに従って愛の裾野を広げる者もいる。宗教に限った話ではない。金や地位、特定の親しい他者を拠り所として生きる人もいるだろう。しかし、そうしたものは時間とともになくなってしまう不安定さも抱えている。
信じているものは同じのはずなのに、人によって結果が異なる場合もある。同じ教えに従っているはずなのに隣人を愛する人もいれば、正義の名の下に異教徒を大量殺戮する人もいる。つまり、「何を信じるか」は勿論、「それに基づいてどう行動するか」も大切だということだ。もしキリストが16世紀に蘇り、サン・バルテルミの虐殺を引き起こした弟子たちを見たら何と言うだろうか。これもまた、宗教に限った話ではない。共同体を拠り所とする人間は、故郷とそこにいる人々を愛する人もいれば、他の共同体に属する人々を迫害する排他主義に傾倒してしまう人もいる。
話を戻そう。人が存在論的な不安を乗り超えるために拠り所が必要な以上、信仰の対象が必要である(ここでいう「信仰」は、広義の信仰である)。そして、信仰に基づいて内的規範が確立されていくはずだが、ここでいう内的規範は人生の中で再検証されていくべきである。人間が関係性の網の中に生きる以上、内的規範は他を害するものであってはならないからだ。
そうして、人との関わりや内的・外的環境の変化の中で再検証されながらも、自らの拠り所の確かさを固く信じる。そして、自らの生に意味を見出し、希望を持ち続ける。それは、不確かな社会で、理不尽な世界で、それでもなお生き続けるための原動力である。