「不合理だらけの世の中で」 文学部二年 杉田純

 2020年の東京オリンピックに向け、屋内喫煙が全面禁止されそうな見込みだ。居酒屋でさえもその例外ではなく、喫煙可能なスペースに比例して喫煙者の人権は次々に縮小させられている。
 もっとも、煙草は緩やかな殺人兵器であると言われてしまえばその通りなので喫煙者である私としてはぐうの音も出ないのだが。
 煙草に限らず、世の中には不合理なものが数多く存在する。酒、ギャンブルなどもそうであろう。今回はそんな、人間が持つ不合理性の話をしよう。
 酒も煙草もギャンブルも、それを排そうとする人の声はかしましい。そんなものは害悪でしかない、そんなものを楽しむなどまともな人間ではない。もはや一種のファシズムではないかと思えるくらいである。
 彼等の言うことは間違っていない。むしろ正論なのだろう。私とて酒はともかく煙草やギャンブルを論理的に肯定しきることはできない。それらの人間に及ぼす影響と、わずかながらのメリット(それもごく一部の人間にとっての)を勘案するとそれらが不合理な存在であることはどうしても否定し得ない。
 だが、酒も煙草もギャンブルも、その他人間に害悪である一面を有するものを否定する人はその先に何を見ているのだろうか、と私は気になってならない。換言すれば、不合理なものを完全に排することに成功した世界はどんな世界なのだろうか、ということである。
 クリーンなことこの上ない、素晴らしい世界だと思っているのかもしれない。しかし、このような世界は私には「気持ち悪い」存在であるように思えてならない。なぜなら、完全に不合理を排した人間は人間じゃないし、完全に不合理を排した世界は人間の世界ではないと思うからである。
 少々話が横に逸れるが、私は昔から言うなればスマートなエリートタイプのキャラクターが嫌いであった。例えて言うなら『ドラえもん』に登場する出木杉くんのような、非の打ち所がない、完璧なキャラクターにどうも何となく嫌悪感を覚えていた。今度は具体例が小説になって恐縮だが、金田一耕助のようなキャラクターがむしろ好きであった。ずばぬけた推理力がある名探偵だが、その見た目はみずぼらしいことこの上なく、仮に現実に存在すれば忌避する人が出てくるであろう。だが、そのようにどこか欠点と言おうか、不合理な面があるキャラクターの方がスマートエリートよりも人間臭く思えて好感が持てたのである。
 不合理性というある種の不完全さがあるからこそ、人間は人間らしい存在でいられるのではないであろうか。無論、完全な状態というものは目指すべきものではあると思う。それを目指してきたからこそ、人間は幾多の発展を遂げることができた。だが、本当に不合理なものがなくなった時、そこにあるのは人間ではなく単なる機械なのではないか。
 安楽死尊厳死は是か非か?
 出生前診断による「産み分け」は是か非か?
 人工知能の発展が人間にもたらすものは何なのか?
 私と同じように、不合理性が人間らしさだと思う人は世の中に少なくないと思う。でなければ、上に列挙したような議論は世の中に巻き起こったりしない。合理性のみを追求すれば答えは出しやすい。にもかかわらず、それに待ったをかける意見が出ること、その是非が社会全体で問われることがあるのはやはり合理性のみを追求することに人間が抵抗を覚えるからこそであろう。
 私は人間や世界の不合理性を全面肯定はしない(別に煙草やギャンブルに一切制約が課されるべきではないなどとは決して考えていない)し、その不合理性に打ち克ち、常に完全な人間や社会を目指す営み自体は素晴らしいものだと思っている。しかしながら、合理性というものを追求するときに、不合理性があることによる人間らしさがあるということを決して無視してはならないと言いたい。そして、合理性を追求しようとする時、その果てにある世界はどのようなものなのかを人は一度考えるべきである。