「 『優しさ』という悪魔 」文学部二年 新谷嘉徳

 前回のコラムでは、「私って何者」というタイトルで他者を通して自身の存在意義を確認するという内容を取り扱ったのだが、今回のコラムでは現代の若者の人間関係と息苦しさや生きづらさとの関係について考えることにする。

 突然だが友達とはなんであろうか。従来なら、「互いの対立や葛藤を経験しながらも、訣別と和解を幾度も繰り返す中で、徐々に揺るぎない関係を創り上げていくような間柄」と答えることができたであろう。しかしながら、現代においてそれは、異なったものに変化した様に思えてならない。それは、対立の回避を最優先にする人間関係へのシフトであると考える。
これは他人と積極的に関わることで相手を傷つけてしまうかもしれないことを危惧する「優しさ」の表れである。それはまた、他人と積極的に関わることで自分が傷つけられてしまうかもしれないことを危惧する「優しさ」の表れでもある。私は、この「優しさ」に、息苦しさや生きづらさが潜んでいると考えるのである。もう少し説明すると、日本青少年研究所の所長である千石保が「マサツ回避の世代」とも呼ぶように、互いに気を遣いながら、出来るだけ衝突を避けようと慎重に人間関係を維持しようとする「優しい関係」の維持を最優先にしている。しかし、このように衝突を避ける人間関係は場の雰囲気により揺らいでしまう関係でもある。そしてここには、相手の行動や反応に敏感になり自分の出方を決断していかなければならないといった様な緊張感が漂っているのである。要は、これこそが先程述べた息苦しさや生きづらさである。
 
具体的にいじめ問題に触れてみる。現代においては、いじめられる者は不特定になってきている様に思われる。引っ込み思案な者がいじめられるかと思うと、出しゃばりがいじめられ、優等生もいじめられる事もある。その立場(加害者、被害者)は流動的であり変化する。被害者が加害者になることもあれば、加害者が被害者になることもあり得るのである。これは、加害者も被害者も偏った性格によるものではなく、むしろ上記で挙げた人間関係から生み出されるものではないかと疑わずにはいられない。少年や少女たちは常に人間関係に安心感を抱きづらくなっている。従って、人間関係の揺らぎは彼ら、彼女たちにとっては恐怖でしかないだろう。だからこそ、自分が浮かないように、空気を読み他人に極度に気を遣うという様な事態が発生するのである。関係を維持するためにも、一度いじめが始まると、なかなかその空気に逆らえない状態が続き、いじめも一向に終わらない。

以上のように対立の回避を最優先する人間関係が生み出すのが息苦しさや生きづらさであると述べたが、「この息苦しさや生きづらさとどの様に付き合って行けば良いのか」、或いは「息苦しさや生きづらさから如何にして脱却するのか」を可能ならば提示するべきなのかもしれない。しかしながら、私は個々人がこの息苦しさや生きづらさと正面から向き合うべきなのではないかと考える。息苦しさや生きづらさのない世界が理想だとしたとしても、それが全くない世界など果たして幸せな世界なのだろうか。それは単に機械的なもの過ぎず人間が人間ではなくなるのではないだろうか。生きづらさと共生することは、ただ生きるだけではなく、その今ある世界の意味を追求する行為であり、それは人間の本質ではないだろうか。生きづらさを放棄することは人間である私たちが人間であることを放棄する事と同じである。私たちが今為すべきことはその息苦しさと生きづらさと正面から向き合い、今ある世界の意味を追求していくことではないだろうか。