「我々が、今こそ」政治経済学部二年 井守健太朗

 政治とインターネットの結びつきが強まりつつある。私が昨年、早稲田大学雄弁会ホームページ内コラム「SNSにおける言説」内で述べたのはあくまでSNS内における政治的活動の広がりであった。例えば、twittermixiが挙げられる。こういった人々が言説を瞬間的に享受できる場面が広がりを見せつつある現状と、その危うさを述べたのが昨年のコラムである。あれから約1年。繰り返しになるが、政治とインターネットの結びつきはさらに強まりつつある。

 今回のコラムで取り上げたい結びつきは「動画」による結びつきである。インターネットを利用しての政治活動は文字という形での言説を超え、時間を空間を超えて相手に対して言説を発信できる「動画」という形態も注目されつつある。かつて―いや、この現象がここ数年で急速に拡大した事実を踏まえれば、過去の大部分の時間において―人々が人を説得するためには、文字という形での言説では物足りなかった。だからこそ、言説の発信人にとって実践活動という場での説得活動は非常に重大な意義を持っていた。具体例を挙げよう。歴史において名演説家と呼ばれる人間が多数現代でも語り継がれている。古代にまでさかのぼれば古代ローマキケロ、自由の国アメリカを団結させたリンカーン公民権運動の急先鋒にたちその実現に人生を捧げたキング牧師。あまたの演説家が歴史に名を残している。彼らはいずれも、演説という実践活動を以て、人々に自らの思想を主張を訴えた。キング牧師の演説を実際に映像でご覧になった方も多いかもしれない。その演説の姿を私が初めてみたとき、心が震えた。その身振り手振りや声調、さらに何十万人という聴衆を目の前にして弾圧を受けながらもひるまず恐れず言説を発信し続ける姿。公民権運動の成就をキング牧師一人のお陰だと考えることは決して妥当ではない。しかし、彼の情熱的な姿によって、ひとつの時代潮流は生まれた。
 話を戻そう。実践活動という場での説得はこれほどに言説の発信人にとっては必要不可欠なのである。しかしながら、実践活動という場での説得の機会がかなり限定的であったことも同時に事実である。
 まず、交通技術というものが発達するまで、言説の発信人は遠くまで移動することができなかった。産業革命以降急速に交通技術が発達してからは、日本においても鉄道を用いた移動が可能となり、明治政府の主張を、政治家が直接地方に出向くことで見聞することができるようになった。早稲田大学建学の父、大隈重信老候も総理大臣就任後であっても鉄道を使い全国に遊説を行っていた。このように、交通技術の発達は一つ実践活動の機会を拡大させたものの、この時代、実践活動という場での説得は一人の人間で行うには時間も労力も大変なものであった。
 また、本コラムの主題である通信技術に関しても、19世紀前半にシリングが電信機を発明して以降、電話、ラジオ、テレビ、衛星技術、インターネットと発達は留まることを知らない。第二次大戦中、ラジオは国民と政府を結びつける強固な手段であった。しかし、ラジオは耳でしか言説を捉えることが出来ない。言説の発信人の表情、身体的表現は可視化されることはなかった。この点で、実践活動という場での説得としては、まだ物足りなかったのである。その物足りなさを打破したのがテレビの登場である。テレビの普及によって人々は、文字通り言説を発信人を見聞することが可能となった。
 そして言説は世界を飛び回る。戦後、衛星技術の発達で、海外のさまざまな言説の発信人とその言説を見聞する機会が増えた。激動の冷戦期にあって戦禍に巻き込まれた国民に哀悼を捧げる為政者とその悲痛な言説を見聞することもできれば、21世紀、自由の勝利を収めた一国の大統領とその勝ち誇った言説を見聞することもできるようになった。人種を超えた、土地を超えた、国家を超えた。まさに、空間は衛星技術を通して乗り越えられたのである!
 しかし、ここでもまだ言説の発信人にとって説得を行うには物足りない。それはなぜか。なぜなら、そこにメディアという媒介が入るからである。メディアによって、自らの言説は何かしらの制限を受ける。内容、時間等が挙げられる。
 ここでようやく登場したのがインターネットである。現在、インターネット動画投稿サイトでは法律以外の制限を受けない言説の発信が可能である。例えば、youtubeにおいて専門チャンネルを設けることで、自らの言説の支持者に対して定期的な言説の発信が可能となった。全くの制限を受けず空間を超えて世界中に主体的に言説を発信することができるようになったのである。

 なぜここで、実践活動という場での説得の歴史を簡潔に振り返る必要があったのか。私がただ心底申し上げたいのは、いかに言説の発信人にとって今の時代が技術的手段的に豊かな時代かということである。言説の発信人に限らない。それは言説の受け手にとっても同様である。思想、主張、映像等の説得のためのツールすらも世界中の空を飛び交う。まずは、読者の方々にこのような時代局面を迎えたことを豊かな時代であると捉えて頂きたい。
 本題に戻ろう。そして、近年、通信速度の高速化、スマートフォンタブレットの普及によって、空間だけではなく「時間」も言説は乗り越えた。いつでもどこでも、同空間同時間を共有して、ありとあらゆる言説の発信人の言説を受け止めることが可能となったのである。受動的に受け止めるだけではない。コメント機能等を用いて、能動的に言説の発信人と同空間同時間で議論することすらも可能となった。ここまで可能性にあふれる時代になると、まさに言説の発信人にとっての歴史の終わりなのではないかという考えすら浮かぶ。予想されうる次の技術は、まるで映画「スターウォーズ」に出てきたように、相手の映像が眼前に立体的に表れて、そこで公共の討議を行う技術であろう。そのような時代が仮に来たとしても、それは今の技術と比較して相手が平面か立体だけの違いである。

 さて、このような時代局面を迎え、ついに先月ネット選挙が解禁された。これによって、候補者、政党は今まで禁止されていたインターネットウェブサイトやSNSを用いての言説の発信が選挙期間中であっても自由に行えるようになった。このような法案の整備だけではなく、政党や政治家自身も自主的にネットとのかかわりを深めつつある。例えば、インターネット動画投稿サイト「ニコニコ動画」には政党がチャンネルを設け広報活動を行っている。2008年に創設された自民党民主党両党の公式チャンネルにおいては、代表挨拶や役員会後のコメントの様子が掲載されている。こうして、さかんな言説の発信と議論が行われる世の中になったのである!という状況になったら、何もこのコラムを書く意味は全く存在しない。残念ながら、ニコニコ動画内の自民党チャンネルの動画再生数は平均しても300前後である。ニコニコ動画内の動画の平均再生数が何回かというデータは調べても残念ながら見つけることが叶わなかったが、もっとも1日の動画の再生数トップが27万回再生(5月12日現在)という事実から考えても、自民党チャンネルの動画は「不人気」な動画だと言わざるを得ない。
それでは一体インターネットを用いた生放送の方はどうなのであろうか。政党、政治家が生放送で言説を発信する機会も増えた。例えば、昨年の衆議院総選挙においては、初めてニコニコ動画を用いた党首討論が行われた。私も拝見させて頂いたが、当日は100万人以上の来場、実に国民の100人に1人が視聴していたことになる。インターネット配信での党首討論が初の試みであり、さらにコメント機能を用いた生の有権者の声といった斬新な試みが話題を呼んだ。が、結果は、冒頭コメントに溢れる「88888」という文字(これは拍手を意味する記号のようなものである)、さらに私の記憶が正しければ司会はこの8の数字群に対して冒頭で少し説明のために触れたばかりで、それ以降一切コメントを拾う等の司会のコメントに対するリアクションはなかった。流れてくるコメントも、「安倍さん!〜して下さい!」といった有権者の要望というよりか単純な個人の願望といったコメントがほとんどであり、1時間足らず、党首の意見も司会のベルで何度も遮られ満足な議論も行えないまま初の試みは終了した。
 もちろん、時間的制約、さらにコメント機能の限界など、様々な改善すべき点があるからこそ、この党首討論が失敗に終わったのではないか、と私は分析している。確かに初の試みであったし、今後ともこのような空間時間を超えた自主的なメディアでの議論がさかんに行われる方向へと政治も進展をしてほしい。ネット選挙解禁のような法案整備も確実にその助けになるものであろう。
 しかし、こんなにも可能性の拡大したインターネットでの言説の発信、議論を自民党は諦めたのか驚くべき行動に出た。それは先月4月27日、28日に千葉幕張メッセで行われた「ニコニコ超会議2」ブースでの出来事である。ニコニコ超会議ニコニコ動画が主催するイベントで、ユーザー主体となってブースが出展され、来場者に楽しまれるイベントである。今年は初の試みとして自民党民主党共産党日本維新の会の4党がブースを出展した。政治を若者に身近に感じて欲しい、そんな思いからネットでの政治活動が普及している現状に合わせて、政党の動きもさかんになってきたのであろう。もちろん、この模様は無料で「ニコニコ生放送」内にて閲覧することが可能であった。私も当日、若者等を交えてどのような議論が行われているのか、大変関心をもって見させて頂いた。
 私にとって自民党ブースの様子はまさに衝撃的といっても過言ではなかった。当日ブースに用意された自民党街宣車からコスプレをした男性女性が代わる代わる立候補者のように演説の真似事をする様子。述べている内容は自分の将来の夢で、実に夢を持つことは素晴らしいことであるが、残念ながら私はそれに何時間も付き合っている暇は持ち合わせていなかった。自民党ブースでは他にも「総裁室」なるものが設けられ、記念撮影をする家族連れで賑わっていた。それではいざ国民と政治家、政治家同士で議論が行われるかと思いきや、そのような予定は一切組み込まれていない。自民党ブースは終始賑やかであった。

 「政治を身近に感じて欲しい」−一体何が身近だと言うのだろうか。ただただ大衆に迎合しエンターテイメント化した舞台が政治の舞台なのであろうか。国民と政治のつながり、身近さは、政治の娯楽化によってもたらされるものなのであろうか。ネット選挙解禁のように、インターネットの技術発展をうけて、時間も空間も超えて、主体的に言説を発信できるようになった結果、このような大衆迎合政治、身近な政治という名を借りた形骸化した政治が行われるぐらいなら、ネット選挙など解禁しない方が良い。社会には常に問題だと意識されるものが存在する。身体的精神的に苦しむ人々がいる。苦しい、不安だと声をあげる人々が存在する。将来は絶望だ。借金は膨れ上がる、誰が弱者を救うのか、将来はこのままだと国の助けはない。言説の発信とは、そういった社会の問題を「社会斯くあるべし」と当為性を持って語るものである。地域を代表し、国政に携わる国会議員が、ましてや政権党である与党が、ましてや一国の首相たる存在が、国策のためという蓑に隠れてポピュリズムと捉えられ兼ねない政治「活動」を行ってもよいのであろうか。私は断じてあってはならないとこのコラムで断言したい。

 まだ実践活動としての説得の場が限定的であった先人は、自らの情熱と威信にかけて、言説を発信し続けた。限定的であっても可能な限りの手段で、説得に赴いた。その情熱は社会を変え、時代を生み出した。2013年の今、技術は発展し、空間も時間も超えて、主体的に言説を発信することが可能となった。言説の発信側も受け手側も、説得の可能性は、あるいは自分の思想・主張を洗練させる機会は格段に増したはずである。
 時代は進んだ。可能性は広がった。言説の発信側も受け手側も存分にその可能性に自覚的になろうではないか。豊かさに溢れる今、自分たちの生きる時代の言説へのアプローチの可能性は限りないのである。