「 友達 」政治経済学部二年 伊藤直哉

 最近、友達を表す単語がいくつも存在することを知った。仮に、高校時代にその単語を思い浮かべたとしたら、せいぜい親友や学友くらいしか思い浮かばなかったであろう。大学に入学すると、よっ友なる単語を知った。それは、すれ違ったときに「よっ!」と挨拶を交わすだけの友達のことを指していて、両者の間には深い付き合いは存在しないらしい。この他にも子どもの間では、信じあえる友達という意味での信友、真の友達という意味での真友や心を通わせあうことができる友達という意味での心友などが存在するようだ。この3つが親友にそれらの単語が包含されるものなのか、それとも別種のものなのか、個人的になかなか判別しづらい。しかしながら、これらを使用する当人たちはその使い分けをしているという。

 友達とは何かという問に答を示すことは未だにできそうにない。なぜなら、上記の友達を表す単語をすべて用いたとしても、様々な関係のある友達を的確に説明することができないからだ。そもそも友達の定義が人によって千差万別である。なぜなら、同じ単語を用いたとしても、それに含意されている意味は人によって異なるだからだ。たとえば、一方は相手を知人だと認識し、もう一方は相手を友達だと認識している場合である。このような状況であると「我々は友達」という言葉が発せられたとき、それは途端に陳腐な感覚を与えるものとなる。この両者の認識の差異を縮めていくことでようやく友達になれると考える。

 友達になった後にはその関係を保持するための努力を怠ってはならない。私は小学校4年生の時に転校した。転校前の学校にはとても仲がよかったI君とK君がいた。I君とは転校後も連絡を取り合っていたということもあり、実際に会うことはここ10年で10回もないくらいであるけれど、今でも何のわだかまりもなく接することができる。しかしK君とは殆ど連絡をとらず、会うことも殆どなく現在に至る。この結果として、彼を友達と呼べるかどうかが非常に怪しくなってしまった。慙愧に耐えない。なぜなら、その件はこちらが関係を保持する努力を怠ったために起きたからだ。

 困難な状況に陥ったときや悲しいことがあったときなど、友達の存在が救いをもたらすことが往々にして存在する。たとえば、友達と遊びに出かけたり、相談したりすることで気持ちが楽になったりする場合だ。このようにして見ると、友達の存在はとてもありがたいものだと感じる。友達は人生における財産といっても過言ではない。

 我々はより大きな社会に進出するとき、より多くの人間と接することになる。人間関係が増えるということによりトラブルも増えるだろうし、社会自体の壁が立ちはだかることも多くなるだろう。そんなとき、友達は助けになるだろう。

 現代社会では人間同士の繋がりが弱まっているといわれている。それは友達関係に限らず、親子関係や近所同士の関係などにも見られる現象である。その原因はグローバル化や、社会の成熟化に見出すことができる。即ち人が繋がっている必要性が減少したのだ。必要に迫られていないのにもかかわらず、維持が面倒な付き合いを好んでする人がどれだけいるのであろうか。こうした流れの中で、友達をつくり関係の維持を行うことは難しいといえるが、意識的に友達作りに励み、関係の維持を行って行けば人生をより豊かにできるはずだ。これから先、友達に頼りたいと思う日が必ず来るだろう。そんなとき、自分の周りには友達がどれほどいるのだろうか。