合同コンテンツ「一昨日」

教育学部1年 岩本慧

「生きるってどういうことなんだろうな」

先日、長い付き合いのあった友人がこんなことをつぶやいた。私は、その問いに対する普遍的な答えなどあるはずも無く、その問いは生きている限り常に問い続けていかなければならないものであって、生を営み続ける限り問い続けていく問いなのだろう、とその友人に返した。木山会員が書いたように、個々人によってその生は異なるものであるし、そこに求めるものも当然異なるのだ。個人はこうあるべき、というある種のしかし、多くの生が存在する社会の当為について口を閉ざすべきではない。むしろ常に問い続けていかなければならないことであろう。

「社会ってどうあるべきなんだろう」と。

では、その「あるべき」の対象たる我々の生きる現代社会はどのような潮流にあるのか。以下に述べていく。

現代社会は、三度にわたる物流・情報移動のグローバル化の影響が国家間の多面的な相互関係の深化を齎し、それに伴って経済的効率性が重視される社会であり、また個々人に自由主義個人主義の浸透から価値観・ライフスタイルが多様化、多重化し自由にライフコースの選択が可能になったものの、個人の行為における自律性が同時に高まり、生活におけるリスクが従来よりも個人化している社会であるともいえる。
 
社会とその成員(社会保障の場合は国家と国民)において、先天的、あるいは後天的な生活上のリスクを分かち合い、保障のコストを分かち合うという「リスクの社会化」が存在していたが、上述の社会潮流の下に現在では崩壊してしまっている。具体的に言えば「イエ」「ムラ」「カイシャ」というような戦後の成長期の核家族・地域共同体の互助・終身雇用に見られる日本型雇用慣行といったインフォーマルなセクターが一つの社会保障としてリスクを緩衝する機能を担っていたが現在においては衰えてしまっているのである。しかし、このような自明のものが自明のものではなくなったことのメリットとして個人の自由な生き方が尊重・許容されるようになったという考え方もできる。

そして生活リスクの高い人々は公的な社会保障に依存せざるを得ない状況に対して経済社会において高能力な低リスクの人々はそれを負担と考えることからリスクを社会化するシステムを不合理と決定することが正当化されているといった現状から、社会構造的要因、あるいは個人の内在的要因によって国家という社会、企業という社会からも生の保障のなされていない人々の存在が問題になってくる。たとえば、経済社会において高リスクであり、特にセーフティネットが機能していなければならないのは生活おけるリスクが高齢化のため増大している高齢者などの人々である。特に高齢化率が20%を超えた超高齢社会において高齢化が極めて急速な勢いで進行していることから、その社会的重要性は明らかであろう。

現在わが国においては、全世代にわたって低所得者層が拡大している。ワーキングプアと呼ばれる年収150万円以下の低所得者層は、雇用者のおよそ4人に1人である。また、生活保護制度の被保護世帯は年次を追う毎に増加しており、2005年度には100万世帯を上回った。高齢化と低所得者層の拡大が意味するのは、高リスクの高齢者が急速に増えていくことである。現在は壮年者の低所得者層が多いが、が現状の改善がなされない限り、そのままその人々が高齢化するのである。そして壮年者の減少は世代間での格差を拡大させてしまう。少ない壮年世代で拡大する高齢世代を支えていくためには世代間の公平性を十分に担保し持続可能なシステムを構築していかなければならない。

本コラムでは、世代間の公平性を担保して経済社会を生きる個々人のそれぞれの生を保障するための言説を発信していく。

次回は、問題の原因構造を明らかにする分析を行っていく。