『プロテスタンティズムの倫理とスポーツマンシップの精神』社会科学部1年 齋藤 暁

 早大法学部の現代文の出典の中に、『近代スポーツ文化とはなにか』という題材がある。これを解いたのは浪人時代なのであるが、すさまじく難しい問題だったと記憶している。選択肢の作りもさることながら、文章自体が当時の私には難しかったのだろう。だがそれと同時にもの凄く面白い印象を受けた。私の中で新たなスポーツの観点がその文章には記されていたのだ。

 私は中学の途中から陸上競技の魅力に憑りつかれ、高校では親元を離れて毎日延々と走り回る生活をしていた。授業中にも関わらず練習メニューを組み立て、休み時間と言えば毎月必ず購入する『月刊陸上競技』と『陸上競技マガジン』を何度も読み返し、記録や選手名はほぼ暗記(俗に言うオタクである)。特にスポーツ医学や文化、コーチングに強い興味を示すようになり、将来はその方面に進もうと思ったこともあった。

 このような経験があったためか、『近代スポーツ文化とはなにか』の内容は、私にとっては問題の正答率が50%に満たないこと以上に衝撃を与えた。そして先日、とうとうこの本をハードカバーで読むことができた。

 簡単に要約すると、近代のスポーツ文化は近代資本主義を背景としており、近代資本主義はマックス・ウェーバーの謂う「プロテスタンティズムの倫理」によって支えられている事を中心に述べられている。

 プロテスタンティズムの倫理とは、カトリック教徒のように教会で祈りを捧げたり免罪符を買ったりするのは無意味であり、死後に救われる予定の人間であれば善行をして当然だとする価値観の下、プロテスタント教徒は日頃から勤勉・節約をモットーにひたすら働き続けるのである。

 そして、労働による報酬は無為に使わず、さらにさらに資本の投入に向けられるのである。資本の投入先は国内に留まらず、貿易、植民地政策などで海外に向けられ、グローバル化が進行する。この結果、19世紀から20世紀にかけて世界最大の産業国はイギリス、次いでアメリカという構図が出来上がった。

 イギリスとアメリカ、この二国は現在世界中で盛んに行われるスポーツを生み出した国である。サッカー、ラグビー、ゴルフはイギリスが起源であるし、野球、バレー、バスケットボールはアメリカである。また、他国が起源であるテニスやスキーも現在の競技としての形はイギリスが起源である。そして、この二国が世界中に貿易、植民地政策を行ったことでスポーツは世界中に伝播したのである。

 このようなスポーツの文化的起源が大変面白かった。正直この問題を解いた時は受験どころではなかった。ただ純粋に読むのが楽しかった。

 また、プロテスタンティズムの倫理観は現在のスポーツの競技性を構築していると私は考える。ひたすら勝利を追求する姿勢、新記録を狙い続ける姿勢は明らかに勤勉・節約の考えに合致しているのではないだろうか?

 勿論スポーツは楽しむものだとする意見もある(そもそもオリンピックの創始者クーベルタンは「参加することに意義がある」と言っている)。その側面はあって当然である。しかし、現代のスポーツは少なからず勝利や記録に対して合理的に追求する姿勢があるのが事実である。プロ野球Jリーグなどの試合を観戦していても、勝利への過程(華麗なプレーや緻密な作戦など)に楽しみがあるように思われる。楽しむことを前提にして競技をしている人やチームは、せいぜい地区のママさんバレーや老人のゲートボールになるのではないか?(若しくはレクレーションを目的としたスポーツなど)

 「教育の一環」(日本高野連)として行われる高校野球も、結局のところ勝利に向かう姿勢の中に我々は心を打たれ感動するのではないか?野球を知らない人でもわかる松井秀喜選手への4打席連続敬遠は「勝利への追求」という本音と「教育の一環」という建前が混同した結果、あの歴史的な観客の大ブーイングを生じさせたのである。(ちなみに私個人としては、4打席敬遠は何の問題も無いと考える。星稜も明徳義塾も死に物狂いで練習した1年間を1試合の勝利の為にぶつけてくるのである。ルール上問題があるのなら同一打者への敬遠は2回までと制限すればいい)。

 もしそれでも敬遠などという汚いプレーはけしからんと言うのであれば、サッカーの試合中何度も繰り返されるファウルの応酬はどうなるのだろうか?

 サッカーに於いては審判が見えないところで反則ギリギリの行為を行うのが常であるが、Jリーグが発足して海外の監督や選手が思ったことは、「日本人はファウルをしたがらない」ということだったらしい。しかし、Jリーグ発足後はその風潮が薄れていき、今では如何にファウルをマネジメントするかが勝負のキーポイントとなっている。サッカーのファウルは良くて敬遠は良くないと言うのはいささかおかしな気がしてならない(勿論両者を同列で語るのは良くないが・・・)。

 恐らく日本人の良心としてはファウルも敬遠も気持ちいい事では無いが、国際舞台でも使われる戦略的なファウルは勝利のために許すであろう(当然相手側も全力でかかってくるわけですし)。

 結局のところ、現在の競技スポーツは勝利を前提に据えており、その考えを支えるのは近代資本主義に於けるプロテスタンティズムの倫理なのである。
スポーツに対する考え方も国際化の波に呑まれていくのである。

 こんなところにもグローバル化の影響が・・・



【参考文献】
『近代スポーツ文化とはなにか』西山哲郎(世界思想社・2006)
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神マックス・ウェーバー大塚久雄訳(岩波書店・1989)