『人は貝に劣るか』文化構想学部一年 岡崎綾修

 昭和33年放映のテレビドラマ『私は貝になりたい』を観て思うところがあった。何度もリメイクされた作品なので話の筋を知っている人もあるかもしれないが、あらすじの説明とあわせて、ここで述べる。

 極東軍事裁判、通称東京裁判において、東条英機元首相が絞首刑を宣告される実録ニュース映像で、本作品は始まる。
主人公の清水豊松は、高知県で妻の房江と共に理髪店を営む一介の小市民であり、彼の営む理髪店に集まる人々は、文字通りの床屋談義を交わし、赤紙配達係の人に顔をしかめながらも、満州(中国東北)は精鋭の関東軍が守っているから安心だとか、フィリピンの戦局は確かによくないが、敵をひきつけて一気にたたく作戦だとかの楽観論がその場を支配し、ラジオから流れる勇ましい軍艦マーチ(日本軍勝利を告げる大本営発表の前に流された曲)に、一同顔をほころばせていた。なお、上述した床屋談義の内容から、おそらく本編はマリアナも陥ちて戦局既に定まった、昭和十九年末から始まるものだと推定される。
その日の夕食時、主人公の息子健坊が、団子汁ではお腹が空くと漏らし、それを聞いた仕事が丁寧で通っている豊松は、商売道具の石鹸を米に換えることを房江に指示する。ここからも、当時の苦しい国民生活と、またなによりも豊松の深い家族愛が感じられるが、赤紙配達係の来訪により、豊松は家族から引き離されてしまったのだった。
 豊松は内地の日高中隊に入営し、古兵殿らから事あるごとに殴られながら、厳しい訓練生活を送る。そんなある日、撃墜されたB29搭乗員が大北山山中に降下、軍司令官矢野中将による「搭乗員を確保、適当に処分せよ」との命令に基づき、豊松は小隊長から『度胸試し』と『士気高揚』の為に、捕虜を銃剣で処刑するように命じられ、捕虜の右腕を刺突、まともに処刑もできないのかと、また古兵殿に殴られる。
戦後、復員した豊松は闇屋のブローカーの仲買をサイドビジネスにしながら、再び床屋家業に精を出す。床屋談義の内容はうつりかわり、戦時中の生活の苦労を作り出した戦争指導者たちが裁判にかけられることを、痛快がるような内容のものとなった。ここから、本作品放映当時の国民感情として、戦争指導者たちに対する個人レベルの怨嗟を感じ取ることができる。
 しかし戦争犯罪人の処罰は、決して彼ら一般国民とは無縁のことではなく、清水豊松も戦犯容疑で逮捕され、話のまるでかみ合わない裁判の結果、絞首刑を宣告された。

 作品中描かれる戦時中の市井の人々は、苦しい戦局に接しても日本の勝利を疑わなかった。復員後の清水夫婦は、店を少しでも大きくすることを想い、それを「まるで夢みたいに楽しい」と話していた。豊松は絞首刑が宣告された後も、必ず減刑になる、講和条約が発効すれば釈放される、死刑になったとされている者は実は釈放されている、出所すれば店新しい道具を入れる、などと、常に希望に目を輝かせ、それは刑の執行が言い渡されるまで続いたのだった。
しかし、死刑の執行が確定しても、教誨師はまた彼に新しい希望を与えようとした。それは、来世への希望である。豊松はその場では生まれ変わったら「金持ち」になりたいとやけっぱちに答えたが、彼は遺書中、その現世において許された最後の希望に対し、来世の到来を「どうしても生まれ変わらなければならないなら」と消極的にとらえた上で、深い海の底の貝になることを望むという、人生、すなわち人間としての営みに対して、完全に希望を放棄したところで、彼は生涯を終えることとなる。

 戦争の記憶がまだ人々の心に、傷跡として残っていたであろう頃に放映された本作品からは、戦争とは、平々凡々な生活を送る一小市民から、完全に希望を奪いとってしまう怪物であるというメッセージが、生々しく伝わってきた。戦陣訓に曰く『任務は神聖なり。責任は極めて重し。一業一務忽せにせず、心魂を傾注して一切の手段を尽くし、之が達成に遺憾なきを期すべし。 』とあるが、戦陣訓を示達し、本作品の冒頭にも登場した彼は、任務に国民個々の生活を含まないものとして考えていたのだろうか。
 国家の独立と領土の保全は重要であろう、国家の尊厳も必要だろう。しかし国家という多分に形而上的な、観念的なモノの為に、現に存在し、生きている民を『生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。 』と、鴻毛の軽きに扱うことは、へぼ将棋王より飛車をかあいがりに類する選択なのではないだろうか。人類がもし永遠にこの選択を捨てないのならば、永遠に人生は貝として生きるに及ばない可能性を持ち続けるだろう。

 終わりに、主人公による最後の台詞を引用する。

「房江健一さようなら、お父さんはもう二時間ほどしたら死んでいきます。
おまえ達とわかれて遠い遠いところへ行ってしまいます。
もう一度会いたい、もう一度みんなで暮らしたい。
許してもらえるのなら手が一本、足がひとつもげてもいい、
おまえ達と一緒に暮らしたい・・・・・・でももうそれも出来ません。

せめて生まれ変わることができるのなら・・・・・・、
いいえ、お父さんは生まれ変わっても、もう、人間になんかなりたくありません・・・・・・
人間なんていやだ、牛か馬のほうがいい。
・・・・・・いや、牛や馬ならまた人間にひどい目にあわされる。
・・・・・・どうしても生まれ変わらなければならないのなら、いっそ、深い海の底の貝にでも・・・・・・

・・・・・・そうだ貝がいい、貝だったら深い海の底の岩にへばりついているから何の心配もありません、
兵隊にとられる こともない、戦争もない。房江や健一のことを心配することもない。

・・・・・・どうしても生まれ変わらなければならないなら、私は貝になりたい・・・・・・。」