「近代主体」

政治経済学部3年 佐々木哲平

近代主体とは、マックス・ヴェーバーが提示した近代における人間像である。その特徴は自律という言葉に端的に表されると思うが、いうなれば自身の明確な価値基準を持ち、主体的に考え、行動する人間のことである。これは近代、つまり個々人が身分、職業、出身、性別などといった様々な社会的拘束から解放される時代を向かえるにあたって必要とされた人間像である。

この人間像がここ日本において最も賛美されたのはいつなのであろうか。

それは一つ目に小熊英二氏の言葉を借りることころの「第一の戦後」であり、二つ目にバブル崩壊後の構造改革期だと私は思う。


「第一の戦後」、すなわち敗戦直後から55年体制が成立するまでの混乱期においては、それまでの社会的ヒエラルキー=象徴としての「天皇制」が真っ向から否定され、或いは否定せざるを得なくなった。絶対だと信じていた天皇、聖戦、大日本帝国、、、それらは敗戦とともに音を立てて崩れ去り、(無論一部であるが)その権威を笠に怠惰・腐敗していた政、官、軍、これらに近くより下級の人間に抑圧移譲していたその他の人々(隣組組長、教師、地域の実力者、軍階級の上位者、果ては国民学校の上級生・・・)もまた依拠すべき権威の体系を失った。そしてそれらの抑圧を受け、排除の恐怖に怯えていた人々も自らを支配する権威を否定することができた。
 
 彼らは敗戦へと続く道をひた走った原因を「権威の体系」=「無責任の体系」に見出した。つまり「御国の為」の名の下、私欲を満たそうとする人間、すべてを自分より上の人間、下の人間に責任転嫁する人間、これらの存在が真に愛すべき祖国を焦土にしたのだと認識したのである。勿論、実際そうであったのかどうかは疑わしいし、私の狭い了見で言うのであればあの戦争は不可避、そして戦中も日本はほとんど選択肢を持ちえていなかったと思う。だが、当時を生きた人々からすれば自分を抑圧してきたにもかかわらず何もできなかった「上の人間」を批判するのは至極当然であろう。これは戦中、戦後の文学者や評論家が自分よりも上の世代を戦争の責任者として攻撃していたことからも伺える。

 そしてその権威の体系に代替するものとして登場したのが「主体性」「近代」「個人」、つまるところの近代主体の概念である。丸山真男が提唱したのもこれであるし、マックス・ヴェーバーが広く紹介されたのもこの頃である。戦前・戦中は京都学派を中心に「近代の超克」を謳っていたが、そもそも日本は「近代」にすらなっていなかったのだ。


 バブル崩壊以降にも似たような出来事が見受けられる。それまで信じられてきたケインズ的財政政策は不況脱却にはまったく役に立たず、日本は10年ならぬ15年を失う羽目になった。護送船団とのたとえに代表されるような国任せ、上任せの体制はもはや立ち行かないとの認識の下で進められたのが、年功序列、終身雇用といった個人を拘束し、人をそこに安住・怠惰させてしまう制度の打破、そして実力主義、自己責任といった言葉に代表される構造改革である。企業家、キャリアウーマン、NPOなどでリーダーシップをとる人が尊敬の眼差しを集めるように、今の時代も社会の流動性が激しく「自身の明確な価値基準を持ち、主体的に考え、行動する人間」が求められているのだろう。そう考えると、小泉前首相の「抵抗勢力!!」という言葉は、大きな政府を頂点として国家・地方財政を省みない族議員、省庁官僚、利益団体といった「権威の体系」=「無責任の体系」を打破するものであると捉えることができる。「JAPAN as NO.1」を誇っていた日本型雇用、日本型経営、日本型経済体制、日本型資本主義、、、これらもまた近年一部で復活の兆しはあるが、一時は構造改革の波間に姿を消してしまった。


 「日本型」は素晴らしいという認識が脆くも崩れ去り、そして「日本型」の持つ権威の体系の否定とそこで権威を笠に着る人間に対する批判を通じて、「自身の明確な価値基準を持ち、主体的に考え、行動する人間」である近代主体が賞賛される。このような流れを通じて「近代主体」という理念は歴史上で登場してきた。

 だがそれに対する反批判も存在する。

 特に現在は治安秩序の崩壊、格差社会、環境破壊などを受けて、「近代主体」という人間像も見直されている。近代主体という人間像はよく言えば「自身の明確な価値基準を持ち、主体的に考え、行動する人間」であるが、悪い側面に着目すれば「決断主義的で、共同体的・歴史的な負荷を無視しがちであり、無意識的であれ他者や人間の外部である自然を傷つけてしまう」ということである。近代的自律認識に対する相互律、リベラル的人間観に対する共同体主義的人間観、理性至上主義に対する自生的秩序論、これに近い論は挙げればキリがない。最近になってよく主張される格差問題やコミュニティの再建はまさにそれである。


 公益の名の下に私欲を満たさんとする無責任の体系や権威主義が批判されるべきなのは言うまでもないが、だからといって「近代」を手放しに礼賛することもできない。社会が大きく変動し、「社会」に求められる人間像も時々刻々と移り行く中、我々はこうした社会科学を通じて人格を陶冶する必要があるのではないだろうか。