「欺瞞に震える声」基幹理工学部二年 宮川純一 

自己欺瞞……自分をあざむき、うぬぼれること。

我々は言説とりわけ当為を述べたり価値観を発露したり思いを乗せた発言をする。しかしそれは常に欺瞞に満ちている。あらゆる立場を把握しえないことや時を経て考えが変化することは当然としても、本人の過去・現在及び未来と無関係に言説が参照されることはありえない。言説は常に、陰に陽に自己を咎め、攻撃し、束縛する。しかも人間の非無謬性を考えれば、それは必然のこととすら言えよう。故に我々は逃げ道を模索し、自らは何も語らず、権威や数字や論理に語らせて共感したり借用したりするのである。確かにそれも自らの言説に対する責任の一つかもしれない。
しかし語らせるだけでは、もはや何も語ってはいない。自らの思いでは無いようにも感じられる。率直な思いを基にして語ってこそ、自分が現れる。
自己の人格の発露、それは誠につらいものである。過去を省みなくてはならないが、しかし弁解する機会は乏しく、未来への意思に溢れる言葉でなくてはならないが、しかし現在の行動にそれが見えなければ非難の的となる。そういった言説の重さ、つらさに少しでも気付いたとき、我々はふと黙って誰かに判断を委ねたくなるのである。つらい思いを引き受けてまで話すことだろうか、もっとよく考えている人に意見することは許されないのではないと。そうしてどんどん自らの判断を言説に乗せなくなり、それは行動に影響していく。結果、自らの判断は自分から消えてしまう。言説への責任の自覚が自分の判断を不安なものとして強調し、それを消してしまうことになるだろう。
しかし自分の思いを消すことは、自分への裏切りであり、自分の存在を認める人々への裏切りである。社会規模で言えば実際上妥当な判断に収斂させることは必要であるし、そうならなくてはならないが、それは個々人の判断が大切にされた上での話である。個々人がなくなっていいはずがないし、意味の世界から自分が消えるようなことは逆に許されない。判断を消すことは何ら良いフィードバックを与えない。言説は過去への厳しい視線と未来への強いプレッシャーに晒され続けるが、それでもなお、最大限の反省と意思を胸にした未熟な私の「欺瞞に震える声」を、断固として高らかに叫ばねばならないのである。