『コードギアス反逆のルルーシュが教えてくれるもの〜虚構の世界から、ポストモダンの動物たちへのメッセージ〜』社会科学部一年 日下瑞貴

前回は天空の城ラピュタが教えてくれるもの〜anastrophe崩壊へ〜においてスタジオジブリの名画『天空の城ラピュタ』についてコラムを書かせて頂きました。今回は、近代表現主義の巨匠、宮崎駿とは打って変わり、現代アニメ、オタク文化の観点から流れだすメッセージを汲みあげたいと思います。
コードギアス反逆のルルーシュ、決して有名とは言えないこの作品、しかし私の心に深く刻まれた大きな物語の最後の息吹、これにスポットライトを当ててみます。尚、ここに書いてある内容は私の勝手な主観でありますので、予めご了承ください。拙稿ながら最後までお読み頂けたら幸いに思います。
コードギアス反逆のルルーシュとは、2006年10月より放送されたサンライズ制作の日本のSFロボットアニメである。SFロボットアニメといっても機動戦士ガンダムシリーズのように多彩なロボ機体や、今もなお語り継がれるような名戦闘シーンがあるわけでもない。では、一体なぜこの作品を題材にコラムを書く決意をしたのか。それは、この作品が近代アニメにみられた「大きな物語」と、現代アニメ特有の「データベース・モデル」、どちらに立脚するのかハッキリしない、そんな一風変わった作品であるとの印象を受けたことからだった。ルルーシュを懸け橋とし、近代とポストモダン、「大きな物語」と「データベース・モデル」二つの異なる世界を架ける物語をみていこう。
舞台は光歴2018年、ナイトメアフレームを有し、世界の三分の一を制覇する「神聖ブリタニア帝国」との戦争に敗れた日本である。戦いに敗れ日本はブリタニアの植民地となった。国名を奪われ、新たに番号を与えられる。「area11」、ブリタニア11番目の植民地、これが新しい日本の名称である。日本人は自由、権力、誇りを奪われ、「イレブン」と蔑まれ生活を送っていくこととなったのだ。町ではブリタニア人から暴力を受け、蔑まれ、それに耐えなければ生きていけない、これが日本の現実であった。リフレインと呼ばれる過去に輝いていた時代を思い出させてくれる薬物すら流行する始末である。もはや日本に、未来は、輝ける明日は、なかったのだ。
主人公はブリタニアの学生ルルーシュランペルージ、元神聖ブリタニア帝国第11皇子ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアである。ルルーシュは父親である第98代ブリタニア皇帝、シャルル・ジ・ブリタニアと決別し、妹ナナリーと共に人質として日本に送られてきた。ルルーシュはナナリーが健やかに暮らせるような優しい世界を作ること、母マリアンヌを見殺しにしたシャルル、ひいてはブリタニア帝国に復讐をすることを自身の生きる目的としていた。しかし、過ぎゆく現実の中、自身の無力さ故に生まれる諦念と無力感から抜け出せず日々暮らしていた。
そんなある日、ルルーシュは謎の女C.C.(シーツー)と出会い、契約を結ぶ。「ギアス」とよばれる王の力を手に入れるのだ。
ギアスとはC.C.のような不老不死のコードを持つ者の手で発現する、他者の思考に干渉する特殊能力のことである。「強制」「誓約」の意をもつ。その本質は個々の能力者が持つ素質や願望そのものであり、それらがコードを持つ者によって特殊能力として発現したものと考えられる。故に、能力は人によって様々である。ルルーシュのギアスは同じ相手に一度だけ、どのような命令でも下すことができるというものだ。ルルーシュはこのギアスを用い、「黒の騎士団」という反ブリタニア組織を結成し、日本を取り戻すための戦いに身を投じていく、これが物語の大きな流れである。そこに恋愛模様や人間関係、嘘、裏切りなどヒューマンドラマ的要素も入り込み、話が展開されていく。
そしてコードギアスにおいて最も注目すべき要素は「正義の林立」である。様々な勢力、様々な人物がそれぞれの正義、倫理を保持しており、読者(アニメも物語を読み解くため)自身の価値観と最もマッチするものに自身を投影させることができる。

さて副題にもある通り本コラムはポストモダンについて考察することを目的としており、評論家の東浩紀(2001)がこれについて興味深い提言を行っている。東は著書『動物化するポストモダン』の中で、オタク系文化の構造に我々の時代(ポストモダン)の本質を見出しおり、次の二つの特徴を述べている。なお、ここでのポストモダンとは「70年代以降の文化的世界」と大雑把に定義されている。
「オタク系文化のポストモダン的な特徴としては次の二点が指摘されている。ひとつは『二次創作』の存在である。二次創作とは、原作のマンガ、アニメ、ゲームをおもに性的に読み替えて制作され、売買される同人誌や同人ゲーム、同人フィギュアなどの総称である。(中略)この特徴がポストモダン的だと考えられているのは、オタクたちの二次創作への高い評価が、フランスの社会学者、ジャン・ボードリヤールが予見した文化産業の未来にきわめて近いからである。ボードリヤールポストモダンの社会では、作品やオリジナルとコピーの区別が弱くなり、そのどちらでもない『シュミラークル』という中間形態が支配的になると予測していた。原作もパロディもともに当価値で消費するオタクたちの価値判断は、確かに、オリジナルもコピーもない、シュミラークルのレベルで働いているように思われる。
(中略)
もうひとつの特徴は虚構重視の態度である。オタクたちは社会的現実と虚構とが与えてくれる価値規範のどちらが人間関係にとって有用なのかを天秤にかけたうえで、社会的現実を選ばないのである。そしてこの特徴がポストモダン的だと言えるのは、単一の大きな社会的規範がその有効性を失い、無数の小さな規範の林立にとって替わられるというその過程が、フランスの哲学者、ジャン=フランソワ・リタールが最初に指摘した『大きな物語の凋落』に対応していると思われる。」(pp.40-44)(強調は筆者)
要するに、二次創作への高評価によって、シュミラークルとよばれる中間形態が支配的になる、オタクたちの虚構重視姿勢から「大きな物語の凋落」が発生する、以上二点がポストモダンの特徴だと主張している。
さらに東は近代からポストモダンへの移行を「ツリー型世界」から「データベース型世界」への世界観の移行と主張する。以下にその説明を記す。
データベース化世界とは「私たちの意識に映る表層的な世界があり、他方にその表層を規定している深層=大きな物語(設定や世界観)がある」とするモデルである。(p.50)つまり、我々が目にする現象は背後にある世界からの影響をうけたものである、とする解釈である。
一方、「データベース型世界」とは「表層に現れた見せかけを決定する審級は、深層にではなく表層に、つまり、隠れた情報そのものではなく読み込むユーザー側にある。近代のツリー型世界では、表層は深層により決定されていたが、ポストモダンのデータベース化世界では、表層は深層だけでは決定されず、その読み込み次第でいくらでも異なった表現を現す」。つまり、ポストモダンのデータベース化世界においては、作品の背後にあるデータベースと読者側の読み込み方法によって、物語は解釈されるということである。
さて、ここまで東のポストモダン解釈を見てきたが、次にこの東の解釈に依拠し、ポストモダンコードギアスにおける関連を3点に分けて読み取りたい。
1点目は作品の「シュミラークル性」である。
ポストモダンの特徴として、二次創作への高評価によって、シュミラークルとよばれる中間形態が支配的になると、先程提示した。コードギアスはアニメがオリジナルの作品である。しかし、アニメだけではなく小説、コミック、ゲーム、同人誌など様々な分野へと派生している。これはアニメミックスと呼ばれる現代では当たり前にとられる手法である。問題なのは、作品が必ずしもアニメと世界を共有していないことだ。特にコミックにおいては『反攻のスザク』、『ナイト・オブ・ナナリー』などキャラクター以外のデータは何ら共有されていない作品も多く存在している。『反攻のスザク』においては物語を語る上では欠かせない、ナイトメアフレームが存在せず、『ナイト・オブ・ナナリー』においては、温厚で優しい、平和の象徴的存在であるナナリー自身が積極的に戦いに参加していく。作品は原作を離れ、それ独自の世界をもって存在している。さらにコードギアスは作品自体の認知度の割に、同人誌市場における人気が非常に高いことでも知られている。以上の点から、シュミラークル支配の構図が見てとれ、ポストモダン的作品と解釈できる。 
2点目は、コードギアス世界における「正義の林立=単一の社会規範の喪失」である。
世界内で正義が乱立し、さらに一つの勢力の中でも信ずる正義は人物ごとに異なっている。まさに単一の大きな社会的規範がその有効性を失い、無数の小さな規範の林立にとって替わられている。そもそも主人公のルルーシュアンチヒーロー的設定であり、そのライバルであるスザクは典型的なヒーロー資質を持っている。しかしスザクが仕えるのは(設定上は)悪の権化、ブリタニアである。このパラドキシカルな設定の存在で、設定上すでに、絶対的(大衆にとっての)正義は存在しなくなっている。単一の社会(世界)規範の不在を如実に表しているのはブリタニア皇帝シャルルの存在である。シャルルは物語の当初から、弱肉強食を唱え、「人は生まれながらにして平等ではなく、不平等においてこそ競争と進化が生まれる」という持論を持つ完全実力主義者であった。ブリタニアが世界を征服する、この設定におけるシャルルは、まさに悪の権化と形容されるが最も相応しいかのような人物だった。そう、最終回の4話前、R2第21話「ラグナレクの接続」まで、シャルルが真に志す正義は現れないのだ。この巻で明かされるシャルルが真に志す世界とは「嘘の無い、人々に優しい世界」なのであった。その悲願を叶えるため、シャルルは思考エレベーターなるものを創設し、ラグナレクの接続「生死に関係なく人の心と記憶が集まる世界、集合無意識に干渉し、不老不死のコードの力を使って全人類を集合無意識へと回帰(個人の意識と全人類の意識を強制的に共有)させること」を画策したのであった。接続が完了すると、全人類が他人に思考をさらけ出す状態となり、さらにはCの世界(人間の思考)に残る、過去に死んだ人間の記憶や思念までもが感知できるようになるとされていた。これによってこの世から争いは排除されると考えていた。世界から嘘を排除することで、真の平和を実現しようとしたのだ。しかし、シャルルの崇高なる野望はルルーシュと世界の明日を求める心の前に崩れ去った。完全なる悪としても完全なる正義としても単一なる大きな規範は成り立たないのである。
3点目は「データベース化世界の要素」である。
データベース化世界では読者側の読み込み方法で物語は解釈される。この点を表出しているのはPS2ソフト『コードギアス反逆のルルーシュ LOST COLORS』である。ゲーム内でプレーヤーはギアスを持ち、記憶を失った人物として行動する。そして彼はどの勢力にでも味方することができる。つまり、プレーヤーは自身の最も共感する正義に、(設定という限られた範囲があるが)自身の読みたい方向にストーリーを展開できるのである。クライマックスもシーン展開も書く場面、場面における選択によって変化するため、読解の主導権は完全に読み手側にある。事実、私はR1第22話「血染めのユフィ」の巻を回避し、紅月カレンと自身が結ばれるクライマックスに至り、そこでゲームを終了した。私の中で物語が完成したのだ。読者側の読み込み方法によって、物語は解釈されているのである。データベースに関しては字数の関係上多くは記述できないが、登場する主要な女性キャラクター(C.C.、カレン、シャーリー、ヴィレッタなど)には多くの同時代作品と外見(ピンクや黄緑、紫など派手な色の髪の毛、スレンダーな体に対し不釣り合いな巨乳)や性格(ツンデレ、天然、不思議・メルヘン)においてソースを共有していることが、ご覧いただければわかると思う。
さて、ここまででコードギアスが如何にポストモダンの特徴を如実に表出していることはご理解頂けたことと思う。最後に私が感じたことを書きなぐって終わりとしたい。

社会が爛熟し、情報技術も発達し、我々は昔と比較して確かに豊かな生を享受できる。死や生、悪、正義、人間とはなにか、など考えずとも生きていけるのである。物語は読者望むがままに解釈され、涙はデータにもとづいた予測可能な変数としてカウントされる。作品に求められるのは一人に珠玉の涙を流させることではなく、大衆にリットル単位の水を流させること。現代人が持つのは、特定の対象をもち、それとの関係で満たされる単純な渇望を意味する欲求であり、望む対象が与えられ、欠乏が満たされても消えることがなく、他者の欲望も欲望するという複雑な構造を内側に抱えている欲望ではない。このような現代を東は「動物化の時代」と命名した。小難しい話題に耽り、高尚な作品を味わうことが文明の覇者たる人間のあるべき姿などと戯言をはたく気はない。
しかし、コードギアスの世界では誰もが信じる正義をもっているが、同時に、誰しもが納得しうる単一の社会規範もまた存在せず、故に一人一人が真剣に、命を刻んでいる。ルルーシュもスザクもナナリーも皆、悩み、悩み続け、そして多くの者が死んでいく。物語の最後でも、互いに異なる世界解釈をもつ集団同士は均質化しない。それでもルルーシュはペルソナを被り続け、世界に訴え続けるのだ。これはまさにルルーシュが単なる自己充足のための欲求ではなく、欲望を持っていたということの証左である。

表層ではポストモダンを体具しつつ、抱いている感情は欲求ではなく、欲望なのである。換言すれば、ポストモダン=「動物化の時代」を表層においては現しつつ、その深層では欲望を持つ「人間の時代」を描いているである。コードギアスはその表層と深層の間にパラドックスを抱えているのだ。
ポストモダンをかくも特徴的に表出しながらも、ポストモダンらしからぬその深層に、今を生きる我々は学び得ることがあるのではなかろうか。アニメの世界、虚構の世界の彼らがやけに、「人間的」に見えたのはアニメオタクの錯覚なのだろうか・・・・・・。