『方丈』文化構想学部一年 岡崎綾修

『上海』――この地名から、多くの人は浦東新区に林立する、高層ビル群を連想するだろう。或いは、黄浦江を挟んでその対岸の外灘に立ち並ぶ、租界時代のレトロモダンな建築群かもしれない。私はこの中国最大の経済都市に、2年半あまり住んだことがある。
 
四合院』という形式の建物を聞いたことのある人は少なくないと思う。北京の伝統的な集合住宅の形式で、口字型の長屋の真ん中に庭があるものである。
石庫門』は、おそらく聞いた事のある人が少ないと思う。なにしろ、上海以外出身の中国人に『石庫門』と言っても、たいていの場合地名と誤解されてしまう。『上海グラウンド』という邦題で放映されたドラマ『新上海灘』の中でも、北京方面出身の主人公が上海にわたった友人を訪ねるにあたって、「石庫門に住んでいる」という手がかりで探し当ててしまうという、ありえない描写があった。ちなみに、高田馬場駅前には『石庫門』という店名の上海料理屋がある。ここまで読んで察しのいい人はもしかすると気付いたかもしれないが、『石庫門』とは上海の伝統的(といっても20世紀前半)の集合住宅形式である。私はこれに住んだ事がある。

その前に私が住んでいた部屋は、三十階建て高層マンションの一室の、壁を全部ぶち抜いて石膏板で三畳ずつに区切りなおし、各戸の用心は錠前を以ってするといった、タコ部屋のようなものだったが、一部屋に八世帯が居住するという過密賃貸形式に対してマンションの管理組合のほうから大家に苦情が出て、退去を命じられてしまった。いくらタコ部屋とは言っても住んでいたとこがなくなると当然困る。なにせ、こっちとら金がないからタコ部屋に住んでいるわけであって、その困りぶりも格別である。

とにかく、不動産屋に仲介費(たしか上海の不動産仲介手数料は家賃の30%と条例で決まっていた)なんぞ支払う余裕もないので、個人が募集を出す不動産サイトで中心部に近いワンルームを家賃の安い順からあたってみると、『石庫門』なら安くていい立地にある場合が多いとわかった。中国の都市計画は、土地ならいくらでもあるということなのかしらんが、新しい建物はどんどん郊外に建てていく方針でしばらくやっていたため、中心部に古い建物が多いのだ。よく写真やテレビで見かける上海の高層ビル群のある場所も、改革開放前までは農場だった。ただし、最近どうも広がるにも遠くなりすぎたようで、中心部の古い建物も壁に「拆」と書かれると忽ち取り壊されてしまう。

そんなわけで見つけたのが、北外灘というところにある、石庫門の物件である。「建築年代:20年」が「築二十年」ではなく「一九二〇年代建築」の意であるのが気に入った。家賃も前のタコ部屋の四分の三になった。

私の借りた部屋は、中二階と屋上に共同厨房のある二階建て長屋の中二階の部屋だった。台形四畳半の部屋で、ベッド、洋箪笥、テレビが備え付けられていた。長屋が立て込んで作られているので、窓の外は日の入らない路地を挟んでまた長屋があり、少し陰鬱な感もあるが、北外灘という地名のとおり港が近いので、汽笛が聞こえてくるのが風流だった。階段の踊り場の窓に、無造作に置かれた酒瓶が、ラベルを見るにどうやら民国年間の骨董品らしいことや、共用台所の鴨居にこびりついた油が、数cmの厚きに達し、まるで保護用のビニールを巻いたようになっているのも気に入った。穴を鼠が横断し、おそらくその任務の為に階下の住人が飼っている猫が追い掛け回しているのも愛嬌がある。ただし、シャワーはともかく便所も無いのには閉口した。以前の中国ではおまるのようなもので用を足していた為、設備としての便所はなく、一々公衆便所まで走らねばならない。風呂は銭湯で我慢するとして、公衆便所まで走るのも面倒なので、こちらは隣に聳え立っている高層マンションの一階にあるネットカフェのトイレを我が家の如く使用することとした。用便の度に行っていると、店員や常連客と懇意になり、特に六四天安門事件の頃大学生だったという常連のおっちゃんからは、貴重な話しを聞く事ができた。

この不便ながらも骨董的趣味に溢れた愛すべき石庫門は、大通りが凸字型に出っ張った部分にあり、その大通りは商店街となっていたが、上海万博に向けて下に地下鉄を通すとかで、私の住んでいた区画を除き軒並み立ち退きと取り壊しが決定していた。

ある工事現場の壁に、上海市民一人当たりの居住面積変遷が宣伝されていた。それによれば、おそらく多くの市民が石庫門に住んでいたであろう1930年代のそれは、僅か2平方米だった――当時の日本都市住民の多くも、六畳或いは四畳半一間に一家族が住んでいたのだから、この数字は驚くに値しない――それが今では、十倍以上になっているという。

海浦東空港から市中心部までは、延々と新興住宅地が続く。そこには、30階建以上のまったく同じ形の高層マンションが、ひたすら、ただひたすら立ち並ぶ風景がある。たしかに、そこでの生活は、六畳だとか四畳半一間に家族四人が住んでいた、風呂もトイレも無い石庫門よりも遥かに快適だろう。しかしどこかに、漠然とではあるが空寒さを感じざるを得ない。

この現象は程度の違いこそあれ、おそらく全世界のある程度まで発展した地域において共通のものであろう。ベルリンのモダン・ジードルング(住宅団地)が世界遺産に登録されたように、都市住民の生活環境が長屋から団地或いは上海のように高層団地へと変化することは、生活水準向上という観点から見れば、非常に画期的なものであった。当時のベルリンでは、住宅の不足から同じベッドを昼夜でシェアするといった状況であったと聞く。日本においても、団地生活は「アメリカ式生活」と羨望の的だった時期がある。その中で『三丁目の夕日』の世界は弊履のように捨てられていった。

今、『三丁目の夕日』の舞台になった東京の下町には、地価下落による都心回帰だとかなにかで、高層マンションが建てられたりしている。しかし、そもそも長屋だの団地だのといった都市の集合住宅とは、どのような需要から発生したものかを考えてみれば、産業革命以後、工業化と商業化の進む中で、農村から都市へと人口が集中し、全体の人口自体も激増し、高まる一方の住宅需要を満たす目的で発生したものではないか。

人口減少ステージにある我国において、総量としての住宅需要は今後減少の一途をたどるものと予測される。そんななかで、より多くの人口をより狭い場所に詰め込む目的の住宅は、果たして必要とされるものなのだろうか。上海の高層団地を見て感じた不気味さと相まって、疑問に思わざるをえない。