「墓標」 政治経済学部一年 早川和紀

 年の瀬も押し迫る中、イルミネーションが煌々と街角を照らし、派手な広告がまばゆいばかりの輝きと共に目に飛び込んでくるようになった。美しい・・・光景だ。人々はそれらにいざなわれるかのように、財布を握りしめてバーゲンの中に消えてゆく。中に入ると不気味なほど笑顔の店員とたくさんの品物が迎えてくれる。一瞬ここにゆけば何か幸せな生活が待っているかもしれないと思う。
 けれど所詮みんな作り物だ。どれほどカゴの中身を一杯にしてもそんなものは手に入らない。店員からいい顔をしてもらえる程度だ。店を出るとき、客にお辞儀をして背を向けた後の店員の顔を見てみるとよい。そこにはさっきまでの笑顔が作り物である証拠がはっきりと浮かび上がっている。そこに美しさはもはやない。虚空だけがそこにある。
美——古来より人類は美しいものを愛で、様々な美を見出そうとしてきた。花鳥風月、雪月花、山紫水明……、美しさを愛でる言葉は日本にも数多くある。生きることにおけるそれは純粋、だと僕は思う。純粋さ——例えば幼稚園で習ったような道徳。当たり前のことだがやるのは難しいこと。近年でも人々の心のどこかにはあるようだ。男気、などという言葉がはやったのも記憶に新しい。やはり筋の通ったことは美しく見えるようだ。
だが、美しいものは往々にして踏みにじられる。それも、美にとって切っても切り離せないものによって。純白の花は雨によってすぐにくすんだ色へと変わるように。若さは時間と共にいつまでも続かないように。純粋も同じだ。この世に生きる限り、何時とはなしに失われてゆくものだ。この世で純粋に生きることは難しい。それを阻むものは、人間の宿痾である醜さと、襲い来る運命である。
 それでも美を求め続けようとした人もいた。醜さと運命に抗い、自分の生き方を以て社会に示し、さらには社会を変革しようとした人もいた。けれどこの社会では、自分の自由意志などどこにもなく、肯定することが求められる構造という正解がそこにはある。正解を逸脱してしまえばその世界から降りなければならない。それを変えるのに僕たちの人生はあまりに短く、あまりに無力だ。
 これまで人類が歩いてきた道のりを紐解けば、そんな先人が死屍累々と折り重なり、所狭しと並んでいる。慟哭と怨念と、悔恨の念が風塵の中に巻き上がる。どれほどの血と涙が流されてきたのだろうか……。その輪廻の中で多くは逃れられぬ運命と闘い続けてきた。その多くは名もなき人々で、いつどこで生きていたのかもわからない者ばかりだ。誰にも知られず、何も残せずに死んでゆく。今もそれは変わらない。
 かつては命を賭してまでこの思いと向き合った若者もいた。たとえ自分が正解・・たりえなくなっても、途中で力尽き、それが何の意味もなかったとしても。しかし、今の世の中で、夜半の桜となって散ると言ってみたところで、この世ではこう嘲笑われる事だろう。何を馬鹿なことを言っているんだ、と。美しい理想を声高らかに訴えてみたところで、御託を並べるなと言って聞き流されてゆく。今や美の探求は、現実との狭間の中で嘲笑の対象となってしまった。当然と言えば当然である。この世を支配しているのは、欲望という美と相容れないものを基底にした合理化、という論理である。それからすれば美の探求など無駄でしかない。合理化という錦の御旗がはためくこのシニカルな世の中で、僕らは何を語ればいいのか。何を見つめて生きればよいのか?
 もし一人で美を求め続けたとしても、社会では孤立してしまう。人間は社会なしでは生きられない。己の信ずるところを貫こうとして、孤高を愛し、孤独をどれほど好もうとも、それで生きてゆけるほど人は強くない。すぐに気づいてしまうだろう。自分が信念を貫こうとしても一人では何もできないんだ、と。羞恥と無力感、そして孤独に苛まれ、社会に背を向けた落伍者でしかない自分が見えてしまう。純粋を愛する者は、自分の愛したものが見せる世界の終末に耐えきれなくなってゆく。一方、純粋への愛を捨てて己の信念を曲げたとしても、進んだ先に待っているものは、虚構の成功と、純粋の死でしかない。それならば心を殺すことはできない。美を失うことはできない。これではもはや生きる事は美たりえないとしか言えなくなる。美を求め続ける限り、この世にいることはできなくなる。ひっそりと、誰にも知られず、消えてゆけばいい。美を永遠にするにはそれしかない、それしか……。日本ではかつて桜花のように散る、とでも言ったことだろう。そうすれば肉体はなくなれども、精神は守られるのだ、と。
 かつて純粋を求め続けた者はその多くが自らの生を自らの手で断ち切ってその思いに別れを告げた。ただ、一つ思うことがある。純粋の向こうに、永遠の美を見たとしても、それが単なる幻だったとしたら……、虚構を否定しながら幻影を追いかけているだけだったのだとしたら……。そうして精神を守ったとしても、何事もなかったかのように地球は回り続けるだろう。自分が生き死にすることなど世界にとっては何の意味もないことなのだ。美を愛し、純粋に生きようとする思いと、今にも訣別せんとする自分が見える。僕が筆を執ったのは、そんな思いを少しでも書き留めておこうと思ったためだ。この世にあって、美というものに人生をかけようとしたバカがいたんだと、そう思ってくれれば本懐だ。
美を語るには人間という存在は卑小すぎる。生まれてしまった以上、僕らは美を愛してはならないのかもしれない。僕らがどんなに永遠を求めても、無情にも時は移ろう。そこにどんな意味があったとしても、どんなに綺麗で、どれほど成功を収めても、めぐる季節の中で、すべてのものは滅びへと向かってゆく。美しく着飾って街を歩く人々も四半世紀という時を経ればそうではなくなってしまう。栄誉栄華を極めたとしても、長くは続かない。人々が去った後に残るのは、数多の墓標ばかりだ。僕らは、実は墓標の立ち方に純粋を見出しているだけなのだろうか?
純粋が葬り去られた世界に何があるのだろう?忙しい毎日の中で、探し求め、考え続けることをやめてしまった言葉。分からないはずのことを、分かったような顔をして語る者達。そしてその言葉を、ただ記号として消費するだけの人々。
 目のやり場を失って、道端に視線を落とすと、虚ろな面持ちをした人々の姿が目に飛び込んでくる。震える手でたばこに火をともす人、安酒を片手にしゃがみこんでいる人……。彼らは何を思い、何をこの虚空の中に見ているのだろうか?きっと彼らは紫煙の中や、宵の酒に、ひと頃の輝きを幻と見ているのだろう。
 僕は救いを求めてその場から立ち去ろうとする。何かから逃れるかの如く街に流れる音楽に耳を傾ける。この思いを誰か歌ってはしまいか、と。けれど聞こえるのは空疎な言葉の羅列ばかりである。どこか遠い世界の出来事のようだ。
道端に広告が打ち捨てられていた。そこに写っているモデルの、微笑みの中の刹那のきらめき。もう二度と戻らない時と共にセピア色に変わってゆく。僕だっていつまでも青臭くて・・・・バカバカ・・・・しい・・ことばかり言っていられないだろう。僕の青春も今や遠く色褪せようとしている。月影の中に消えゆく街並みを見ながら、無情にも、無常の風が吹き渡るこの街で、今日も一人佇んでいる。